囲碁の勉強法について考えてみる

 通常、囲碁の勉強法として良く言われるのが、詰碁と棋譜並べなのだけれど、それで本当にアマチュアは強くなれるのだろうか。この二つは、どうもまだ頭の柔らかい子供向けの勉強方法に思えて仕方がない。

 私みたいに、ある程度トウの立った人間が強くなるためには、もう少し別のアプローチが必要な気がする。絶対的に意味がないとかじゃなくて、プロを目指さないアマチュアレベルでの強さを求めるなら、別口の効率の良さがありそうに思える。

 なんというか、詰め碁って論理的な手順の探査ではなくて、もっと画像認識みたいなレベルで解いてる気がするんだよね。手をヨムことで正解を見つけるんではなくて、図から感じた第一感をヨミで確かめている。手順が逆ってことかなぁ。これは、ある程度簡単な詰め碁や手筋をやれば自分でも実感できるようになる。大体このあたりで駄目ならこりゃ駄目だなとか。

 ヨミ自体の深度は複雑な詰め碁で鍛えることになるのだろうけれど、正直ある年齢を超えてからは複雑な詰め碁を勉強として解き続けるのはそれほど効果的とも思わない。なんというか、ある程度の年齢になると図形を見た際の処理方法がデジタル的になってる気がする。

 情報をあっち側かこっち側どっちで処理するかの問題なんだけれど。大学時代の同期の死活に関する感覚をみていると、それは自分にはもう得られないものなんだろうなと思う。

 とはいえ、結局自分で勉強をしようと思うと、とっかかりとしては詰碁と棋譜並べ以外に思いつくことがあまりない。と考えて、漫然と棋譜並べを続けて来たわけですが、流石にそれもどうかと思う。

 じゃぁと、一度考えをリセットしてみて、研究会でぴょんちゃんに与えられた課題を考えてみる。「アフロは詰碁をもっとやったほうがいい」とは一度も言われたことがない。常日頃口を酸っぱくしていわれているのは「形勢判断をしっかりしなさい」ということだ。

 ずっと碁を打っていて、最近特にだけれど実戦でヨンでいる図の善し悪しが全く判断できない。なにか自分が打っていると全てがモヤがかっていて苦痛なのだ。それは、形勢判断が全く出来ていないことが一つ要因にある。だとしたら、それを課題としてやっていくのが一番近道だろう。基準が間違っているか、否かはたいした問題じゃない。それは精度だけの問題だ。判断のより所を持っていないのが一番の問題なのだろう。

 形勢判断の結果、何か勝負をかけたり、控えたりする。その行為が正しいかどうかは後から精査できるし、そこで間違っていたとしても直すべき点はハッキリしている。自分の行動原理をハッキリさせないで、勝った、負けたを論じても、結局基準がないので自分自身で修正出来ないことになる。まずそれを避けるために形勢判断をする癖を付けようと思う

 その前提で、対局時はともかくとして、日常の訓練として出来ることはなんだろうか。詰め碁に形勢判断は関係ないので、そっちでは出来ることはない。ということは棋譜並べで並べながら定期的に形勢判断をすることで数える癖をつけるようにしようと考えた。今まで、ただ並べるだけだった棋譜並べに別の意味づけができた。こういう目的意識をもっていないで漫然と並べていたから上達しなかったのだろう。

 試しに、一局試してみたが、なかなか良い感じだと思う。時間はかかるけれど毎日やっていれば、そのうち慣れてくるだろう。作戦立案、実行以前の、その基準になる情報収集からまず手をつけて訓練していくことを、最低でも半年は続けることにしよう。自戒の意味も込めて、並べて計算した棋譜をblogにアップしていくことにします。さぼっていたらバレバーレ。

●今日の一局
中央の攻防がおもしろい