子どもとの付き合いかたあれこれ

上の子のが小学生になって宿題や日々の用意などいろいろやることが増えた。子どもは本当に予想外で昔の自分を思い出したり。違いに驚いたりする。上の子と下の子でも同じ家庭環境とは思えないぐらいに違う。

 

自分としては子どもにそれほど多くのことは求めていないので忘れ物や宿題やらはあまりうるさく言いたくはない。だって自分もやってなかったし今でも別にそれで損をした気はしていない。自分が小学生のころ、なぜそれをやらないといけないのかを納得させてくれる大人は周りにはいなかった。学校でやることはバカバカしかった。今になって思うのは自分でもう少し学びかたを考えておけば良かったと思うくらい。

 

でも結局それも今になってからでも学べるし遅すぎたとも思わない。少なくともそれは自分で学ぶことであってうるさくいう大人の言うことを聞いて身についたとも思えないのだ。じゃあ今自分は子どもに対してどう接すれば自分が欲しかった親になるのだろう。親業も試行錯誤なんだけれど、最近思うのは宿題をやれということに合わせて一緒に考えてあげることかなと思っている。

 

上の子はとても自分に似ているのでまだやりやすい。先日算数の宿題を見ていたら答えに空白ではなく「わかりません」と書いていた。これはなかなか良いシグナルだなと思った。わからないことをわかりませんと書けるのはセンスがあると思う。無知の知、理解の本当の一歩目だ。本当にまずいのはわかってないことすら分からず、やっていないことすら無意識で空白なこと。わからないという考えたプロセスを記録に残せるのはなにも教えていないなら学習のセンスだ。

 

とりあえず上の子を呼んで「わからない」と書いてあるけどなにがわからないのか?お父さんと一緒に考えようといってみた。嬉しそうに「問題の意味がわからない」といってきた。問題は「4cmのテープが二本あって1cm重ねて貼ると□cmになりますか。」という問題でそれっぽい絵もついている。重ねて貼ってあるような絵面だったんだけど上の子には絵の意味がわからなかったようだ。取り急ぎそのへんの紙を4cmに2枚切って図と同じ状態にしてみる。それをみて「あぁそういうこと!どちらかが1cm短くなるんや」と普通に解けた。

 

このやり取りで子どもの学力をある程度把握できた。数学的能力と国語的能力の差異がわからないという結果を生み出していることがわかった。多分上の子になにかを教えるのは楽だと思う。短期的な理解度は高い、ただ集中力は続かない。あと視野狭窄がひどいので今の視野外の精度が著しく下がる。それを一旦切り替える術を学べば自分で大抵のことはできるだろうと思う。その術を教えてあげるのが当分の役目かなと考えている。