ノート

「ノート自体を評価しない」のは、(生徒が)ノートを真に「脳の一部」あるいは「外部記憶装置」として活用するためには重要である。

冒頭の「カンニングペーパー持ち込み可の試験」は、ノート自体を評価するのではなくて、ノートを使って為したものを評価 にも合致する優れた方法だ。
voice of stone


 ということでhidewさんのところでノートの話題が出ていたので便乗。

 とにかく私はノート提出が嫌いだった。小中高とノート提出は断固拒否してきたわけです。今思うと幼稚な反抗ですが、ノートを書いてさらに提出する行為が当時の私にとっては馬鹿馬鹿しい事だったのです。

 というか、行為が馬鹿馬鹿しいというよりも意義が理解できなかったといったほうが正しいでしょうか。少なくとも私の周りで私を納得させるだけの回答をしてくれる大人はいませんでした。

 特に、板書と全く同じものを提出しろという教師に対しては真面目に「アホかこいつは」と小学生の頃から思っていました。「それが自分のため」といわれると自分の為にとるなら必要なように好きなようにとればいいじゃないかと思っていました。実際成績は他者と比べて問題なかったので余計にそう思ってしまうわけです。

 理系にはありがちな話ですが、記憶に対してのアレルギーがとても強かった。何でもかんでも覚えなければいけない社会系の学習は私にとってはあほくさいものでした。本を読むことは大好きだったけれど、書いてある事を何故覚える必要があるのか、必要な時に調べれば良いじゃないかと常々思っていました。

 まぁある程度思考を積み重ねるために、基礎知識というのは必要だと言うことは今から思えば理解できますが、そもそも基礎知識から思考を積み重ねる作業というのを学校ではとんと習った記憶がありません。

 学校と塾の違いという話で、勉強以外にも大切なことを学ぶという話がよくされます。本当にそうなんかと疑問に思ったりもします。よく子供の勉強しない反論に「こんなの学校以外で使わないよ、知識として役に立たない」というものがあり、大人の反論として「勉強のしかたもひとつ勉強なんだ」というものがあります。

 私は勉強しなかった身として、社会にでて何年かはそういうものかもしれないと思っていましたが、最近は考え方を変えました。社会に出てからあれほどカンニングといわれる行為に対して背徳感を持つ必要はないと思うのです。基本的に学校では勉強は自分の力でやるものになっています。試験中も資料をみてはいけない、相談してはいけないという基本原則があります。

 実際の所社会に出て、それほど情報から隔絶して問題解決をする場面があるでしょうか。むしろ他人の力を出来るだけ借り、集められる情報を全て集めて問題解決を計るのが普通でしょう。そう考えると協調的行為じたいが背徳として語られる現在の教育システムはどうなのかと思ってしまう訳です。

 結局のところ、自分が抱える問題をどう解決するかが一番の問題のはずです。そもそも、学校で個々を評価する必要すら怪しいのかもしれません。例えばテストというものが教えあって(見せあってになりそうだけど)全員100点で本当に困るのかという話です。競い合うことで切磋琢磨するというお題目もありますが、それが今日の病的とも言える個人主義の原因だと思います。

 まぁしかし、こんな事を言いながら詰め込みは悪いということで「ゆとり教育」とか言い出して失敗しているところをみると私の見方も一方的な感があります。自分の中で思考を組み立てられるコアなものが出来るまでは、他人がなにか基準を用意してあげないといけないのも確かです。問題はそれが身に付くまでの期間が個々人によって大幅に違うことなんですけどね。