恋愛的瞬間

 という漫画がある。少女漫画なので自分で買ったわけではない。某友人が盛岡から引っ越しする際に自分の漫画を、全部私の家に置いていったから手元にある。

 まぁ女友達なので、当然少女漫画が多くて私にとっては未知のジャンルである。

 最近は、私の昔を知らない人も多くなってきたので、少し注釈をしておこう。私はまぁ人並み以上に漫画好きだったと思う。

 一般的ないわゆるオタクともまた違う意味で漫画好き。ジャンルが王道の範囲内をほぼでなかったのでそう思っている。普通の少年漫画、青年漫画が好きだった。ベタなジャンプ、サンデー、マガジン、チャンピオンあたりの購読者だ。

 一時期は全部立ち読みをしていたわけだが、結婚するときに義母に漫画を読むのは人としてどうかみたいな発言をされたので、それを切っ掛けにやめてしまった。

 中毒やら出るかなと思ったけれど意外とあっさりやめてしまった。コミック購入は仕事を始めてからめっきりやらなくなったので、うちにあるコミックはみな2000年以前で尻切れになっている。それ以後の漫画は友達が結婚やらなんやらするときに、家に置いていったからだ。まぁ図書館に寄付するような気分になっていたに違いない。

 話しが大分それたが、そういう経緯もあって彼女も手持ちの漫画を私の部屋に置いていった。まぁその中の一つが「恋愛的瞬間」であった。

 形式は主人公の周りに人間関係をオムニバス形式でつづっている。自殺や不倫、ストーカーなどが描かれている。その割にはさわやかに読めるのは作者の実力なのだろう。

 その中で「友情とは何らかの障壁によって達成出来ない恋愛関係である。そうでないものを私は恋愛とは呼ばない」というフレーズがある。この言葉はかなり当時の私にとっては衝撃的だった。

 正直なところ、私は友情と愛情の区別が付けられない人間だ。これはある種、致命的なのかも知れない。気持ちが悪いかも知れないが、私は友人全てに度合いは違え私なりの愛情を注いでいる。

 私にとっての恋愛とはある意味、最も愛情を注ぐ対象との友情ということになる。種類の違いではなく度合いの違いなのだ。プライオリティがナンバーワンになる。四角形と正方形の差であって四角形と三角形の差ではない。

 これは対象者にとって、とてつもなくストレスになるらしい。少なくとも私が今までつき合ってきた数少ない女性にとっては。今までつき合ってきた全員に「私はあなたの友達じゃないのよ?彼女なのよ?分かってる?」と異口同音に言われている。私からしたらそういうつもりでは無いのだけれど、どうも定義が違うらしい。

 どちらかと言えば、問題は友達側に対する対応よりも彼女達にもっと何かをすべきだったようだ。それはいわゆる配慮なんだろうけれど。彼女が出来ることによって生じる行動制限というのは私が思っているよりもかなり大きいものらしい。

 今振り返ってみると、同じ台詞を言われても微妙にニュアンスは違う。最初の彼女には、私は彼女じゃなくて家族を欲していたのかも知れない。刺激的な外出やイベントよりも穏やかな生活を淡々としているのが好きだった。2年間の同棲スタイルがそれを顕著に物語っている。

 「あなたとは、結婚生活は出来るかもしれないけれど、恋愛はもう無理、ドキドキしないもの」というのが、私の体験した最初の別れ言葉だった。あまりにも親しすぎて刺激の無くなる関係。

 「あなたがどこで何をしているか信じられない」というのが、私の体験した最後の別れの言葉だった。オープンで彼女に対して配慮のなさに不審を抱かれる関係。

 不思議なものだ。私自身の女性観は最初と最後でほぼ変わっていないように思う。最初の彼女には、あなたは女にもてなさすぎるから何とかしろ的に思われていた。だから他の女の家に泊まるとむしろ良くやったと誉められた。(ただ飲み会なんかで泊まるだけ別になんもない)

 IRCで言ったら皆に大受けされたのだけれど、私は義母に生まれて初めて「あなたは浮気しそうだわ」と言われた。私でもそう見てもらえるのかと、なんか逆の意味で感心してしまった。所変われば人変わるんだなぁと、というより世の中は広い、知らないところでそういう風に感じるコミュニティもあるんだとすさまじく感動したものだ。

 これは経験からの憶測でしかないけれど、男女かかわらず、私は他人にとってすごく物が言いやすいのだろう。基本的に私が人の話しを聞くのが好きだからかも知れない。その分、私は色々な意味で受動的なんだと思う。

 最初の例は、受動的すぎて物足りない。そして最後の例は、受動的であるが故にそれを自分だけの特別にして欲しかったのではなかろうかと思う。誰しも自分だけを受け入れてくれる存在が欲しいのだろう。

 もう30年以上生きてきたけれど、好きになった人間を嫌いになったことはない。多分それは幸せな人生を歩んでいるからなのだろう。今までにつき合ってきた人達が突如現れて「やぁ」といわれたら普通に笑顔で受け答えすることだろう。困っていれば出来る限りのことはするだろう。私にとってそれは当たり前の事なのだけど。そういうことを公言することそのものが配慮が足りないのかも知れない。

 それぞれの人には、それぞれの長所と短所がある。その差分で評価を撮っているのかも知れない。でも私は何か、そう何かについてその人を良いと思ったら、そこは限りなく愛おしいのである。私なりの観点で、何かを感じてしまったら他ははっきり言って枝葉の問題なので気にならない。

 関係は環境によって当然変わるかも知れない。ただ、私の人付き合いの根底にある物はそういう形骸的な環境に影響されない。それが良いのか悪いのかは分からない。