やさしくないといわれる

 指導碁がどうもやさしくないらしい。自分の中で考える無茶はしていないつもりだが、加減するというのはどうも出来ない。負けることが悔しいのではなくて、抜きということがうまくできないのだろう。ゆるめるとどこまでも手がゆるんでいく。

 指導碁とはいえ、自分も打つ以上何かの目標を立てるようにしている。目算であったりヨセの手順であったり。教える側とはあまり思っていない、自分も結局学ぶ側だと思っている。指導という行為を通して何かを学ぼうと思っている。

 下手からすれば勝ちに来ていると思われているだろう。その中でも自分なりの境界線がある。少なくとも終局後の検討で種明かしはしようと思っている。自分が何を考えて、そうしたか。次にもし同じ形になればこうすれば僕は困っているよと。そして、もしも次回同じことをやってきたらしっかりつぶしてくれればいいのだ。

 私は所詮、相手を楽しませる碁を打つことは出来ないのかもしれない。強い弱いじゃなくそれは商売じゃないから。教えるというプロであればそれはダメなのだろう。相手を楽しませることだけを考えたら、自分は何のためにこの対局をしているのだろうと思ってしまう。教えの場は私にとっては学びの場だ。そう思ってしまう私はダメなのだろうか。