わたし

 blog巡回していたときにid:fujiponさんが紹介されていた記事

 ぼくが、ここで、こうして毎日書いていることも、
 まったくそうなんですけれど、
 「わたし」というものを、
 まったく関係なくしたままでも
 文章は書けてしまうわけです。
 
 「今日はいい天気です。」には、
 多少の「わたし」がいます。
 「いい天気」の「いい」を感じている「わたし」です。
 「今日は晴れです。」に、「わたし」はいません。
 ‥‥というようなことは、ぼくが、いま、
 「わたし」をなるべく削り取ったままで、
 「わたし」のいるいないについて書いているせいで、
 ここまでの文章には、ほとんど「わたし」はいません。
 
 お国の大事について語ることも、
 世界の平和について演説することも、
 歴史的な偉人についての研究を発表することも、
 芸能ニュースについておしゃべりすることも、
 同情すべき他人について訴えることも、
 「わたし」のいないままで、いくらでもできます。
 同じ日本語ですから、
 「わたし」が、いようがいるまいが、
 そのちがいもわかりにくいものです。
 
 ぼくも、そうしていますけれど、
 まるまる全力で「わたし」のいる文章だけ書いていたら、
 おそらく社会で生活できなくなるので、
 「わたし」をしょっちゅう外してものを言います。
 だけど、「わたし」を外すことを習い性にしてしまうと、
 「わたし」は、蒸発してしまうように思うんですよね。
*1

http://www.1101.com/home.html

 いまでこそそうでもないけれど、わたしはblogに時事ネタを出すのがあまり好きでなかった。興味があって定点観測しているようなものならともかく、たとえば今でいえばインフルエンザなどの話題にあまり「わたし」は入らない。関わりが薄いことをなんとなく書いても借り物のどこかで読んだものの転載みたいになって書いていてもステレオタイプに感じてつまらないのだ。

 blogに書いていることは、思いつきでその場で書いていても、題材自体は普段から頭の中でこねくり回しているものが多い。そのとき気になることがもやもやと形になっていてそれを苦心しながら形にしてはき出すから文章を書くことの達成感があるのだろう。書き出した文章そのものよりも、書くという過程に充足感を覚えているのかもしれない。完璧な自己満足の世界だけれどね。

*1:5月26日分の日記になるので多分もうすぐリンク先と内容があわなくなります