目とカメラ、そして窓

 GX100を使い始めて、画角というものを意識するようになった。ステップズームという機能は、単焦点カメラを擬似的に体験することが出来る。今まで、ズームというのは画面が大きくなるのか小さくなるのかだけの違いだと思っていた。広角というものが、ゆがみを伴うことすらも最近分かったぐらいなのだ。

 カメラを使い出すと、人の目というものがいかに汎用性が高いか良く分かる。いや、それは正しくないか、目から入る情報は一定なのだろう、それを脳で認識する際に色々細工がされているのだろう。視界に入ることと認識されることは違う。視界に入っていても認識されないことが沢山ある。それは擬似的にデジタルズームされているのと同じ事なのだろう。

 風景をみて「綺麗だな、写真を撮りたい」と思ったとき、そのことを痛感する。カメラの液晶で見てみると、実際自分が思った風景よりものっぺりしている。広角がゆえにということもあるのだろうけれど、自分が思っているより余計なものが入っているのだ。

 むしろ、カメラの液晶の画面ですら、注目点しか見ていない場合がある。あとで、PCで撮った画像をみてみると画面の端に、ストラップがひっそり写っていることなんかも良くある。どうして撮るときに気がついていないのだろうかと思う。

 無限にある風景のどこを切り取るか、それが私にとっての写真をとる醍醐味だ。日常のありふれた風景であっても視点を変えて切り取れば面白いことが沢山ある。そういった風景を見つけたとき、とても楽しい気分になるし、それがカメラを使って思い通りに保存できるなら、それは更に楽しいことだ。

 そんなことを考えていると、ふと窓というのは写真の元祖なのかもしれないなと思った。風景を窓という枠で切り取る。それは一つの芸術なのかもしれない。茶室なんかの丸窓は意図して庭の風景をきりとってあるだろう。春夏秋冬の移り変わりを、あえて窓を通すことで視点を固定し、客を迎えるための一つのおもてなしの品として用意していたのかもしれないなと。何を今更といわれそうだけれど。

 カメラを色々と弄ると、見るということの面白さを改めて感じる。自分が日常的に繰り返してきたことのすごさや、見逃してきたものの多さに驚くばかりだ。