ぼくからきみへ

 夜中に久しぶりの友人から電話が入る。ありていに言えば女性に振られたという話し。まぁ当然もうちょっと肉付きのある話なんだけれど、細かいところは省略。

 そのなかで「いままで振る立場ばかりだったから分からなかったけれど、自分が振られてみると今までやってきたことって実は酷いことだったんじゃないかなぁと思い始めた」という言葉があった。このあたりは当事者にならないときっと分からないのだろう。

 私は、小中とずっといじめられる立場だったので、自分から人との縁を切ることに怖ろく抵抗がある。いじめられたから孤独だったというよりも、人の評価というのは多面的なはずなのにどうして一部だけを拡大してそれでレッテル貼りするのかずっと不思議だった。

 人とコミュニケーションを取ることは非常に楽しい。色々な人の色々な面がある。そして、それは主観的に良い面も悪い面も。でも、良い面だけを取り出して選択することは事実上不可能だ。だとしたら悪い面も含めてつき合っていくしか仕方がない。

 自分がつき合いたいと思うということは、その人の中に自分にとって何かすごく惹かれる部分があるということだから、一度何かについて自分が認めた人と自分から別れようと思うっていうのは逆に凄いなと思う。その辺は、泥沼の温床ともいえるんだけど、それはそれで良いかなと思う自分がいる。

 いじめられるということは、大抵人格を否定されるということだし、そういう体験をした人は多かれ少なかれ自分を大切にしてくれる人のありがたみを知っていると思う。自分を大切にしてくれる人を、自分が大切にすることの重要性を本当に痛感する。「覆水は盆には返らない」

 私は気が利く方ではないし、デリカシーがないと言われてしまうのだけれど、それをいいわけに諦めることはしちゃいけないなと思っている。全部が全部美味くは出来ないのだけれど、相手に対しても大切にしていることが伝わって、なおかつ喜んでもらえたら自分も楽しい。

 そして、今まで色々やってきて一番感じたことは「自分を変えようとしないで、相手を受け入れようとすると無理がでる、無理は最終的に全てを駄目にする」ということだろうか。