優秀さの行方

 優秀だといわれる人は世の中に沢山いるだろう。その中で「あの人は優秀だけれど環境がわるい」という話を良く聞くことがある。優秀さって一体なんなのだろう。

 普段使われているのを聞くと、スキル的な練度を指すことが多い。技術力が高いことと優秀は果たしてイコールなのだろうか。尺度は色々なのだろうけれど、技術を運用する能力と技術力は全く別の話だ。それを混同して上司の批判などをしている姿をよく見る。

 自分は優秀なのに周りがその芽を摘んでいる。そういった愚痴は色々と聞く。しかし、よく考えてみると、本当に優秀な人間ならば環境因子は全て状況と捉えて、自分が出来る範囲で改善していく。その際に周りに対する不満というのは無意味だ。人的要素は特別と捉えられることが多いが、自己環境の改善を試みている人間は少ない。

 正しい(と自分がおもっている)状態にあるもののほうが世の中には少ない。曲がっていたり、無かったり、反対を向いていたり、その状況をいかにして自分の好ましい状態にしていくかを考える。環境はある種道具だ、立場にかかわらず、特性をつかみ、使いこなす事で欠点を消して利点だけを表に出していくことは、かなりの場合で可能だ。

 「不条理なことは相手が正すのが当たり前だ、自分は間違っていない」というメソッドは全く無意味だ。あるべき論でいくら周りの非を唱えてみても現実は現実だ。自分にとって不都合な現実を、自分の影響範囲内でどう改善していくかが問題だ。

 自分が持つスキルは確かに重要な要素だろう、しかし、それをマネジメントする能力が無ければ使われるだけになり、そして、それは大抵面倒なことに巻き込まれる。そして、何故自分は優秀なのにと嘆くことになるのだ。

 雨が降るのが分かっていて傘を持っていないのは馬鹿だといわれる。にも係わらず、上司が馬鹿だと分かっていて上司が悪いというのは馬鹿だとはあまりいわれない。本質的には同じことだと私には思える。確かに上司はその時に選べないかもしれない、しかし、そういったことに何か自分が影響を及ぼすように工夫する事がもっと必要なのではないかと思う。

 使いにくい道具だろうとなんだろうと、自分に与えられた選択肢のなかで自分は生きていかなければならないのだから。