他人との関わり

 他人との関わりのスタンスについて考えることが良くある。自分以外の全てに対して自分はどうしたいだろうか。私は他人に対して怒ることは殆ど無い。あったとしてもそれは一瞬で何らかの形で昇華されることが多い。良くも悪くも。

 ついでに、人間関係においても「つまらない」と言ってしまったら負けだと思う。もっと言えば、相手を否定したら負けだと思う。
 「あいつはつまらない奴だ」「軽蔑に値する人間だ」と否定してかかると、敬意をもった交流から得られるはずのものを逃してとても損をする。
 相手をナメてかかったおかげで、あとで自分が痛い目に遭うことだってある。
「つまらない」と言ったら負け

 この辺りは非常に同感だ。物事は全てニュートラルだ。つまるとかつまらないというのは観察者の判断であって本質ではない。言い方を変えれば評価は観察者によって作り上げることが出来る。観察対象「が」つまらないのではなく、観察対象「を」つまらないと「判断した」のだ。

 そういう意味で、私は社会的な判断に対してかなり無関心なところがある。社会的なラベルよりも自分の判断を優先する。観察者全てが様々な判断を下すという意味で、判断結果は絶対ではないことになる。いわゆる常識はマイノリティであるということにすぎないから。

 しかし、相手が殺人犯だったら? レイプ犯だったら? 私ではなく、私の家族が侮辱されたり、危害を加えられたとしたら?・・・もちろん、いかなる場合であっても、私は相手そのものを侮蔑し、侮辱してはならない。行為についてはともかく、相手その人について人間性に欠ける、非人間的だ、などという言葉を投げつけてはならない。しかし、そんなことができるのか?

 相手を憎むことと、相手の人間性を否定することの境目は?

 そうなると、この辺りは非常に微妙な話になる。殺人犯、レイプ犯様々なラベルがあるのだけれど、多分私は直接的な関わりが無いものに対しては本質的に無機質に眺めてしまう。まぁ殺人、レイプなどは極論なのだけれど、たとえば脱税で捕まったという人に対してそれほど嫌悪感を覚えるかと言えば微妙な所だ。

 人は多かれ少なかれ負の属性を持っている。正の属性だけを持つ人間はこの世に多分存在しない。みんなどこかしら叩けばホコリがでる体なのだ。結局そのあたりはリスク管理の問題になる。社会的に見ても、害悪よりメリットが大きいようなことは必要悪と言われることも多い。

 そうなると、結局の所、差し引き正負どっちに転ぶかという話だ。自分の家族が侮辱されたり危害をうけることにおけるデメリットというのは非常に大きい。すなわちそれをうち消すようなメリットというのはそうそう無いので、それに対しては切り捨てる方向になるのだろう。

 たとえば、自分の恋人が親を殺したと仮定しよう。この場合、親の殺人者というラベルと、恋人というラベルのどちらの絶対値が大きいかで話が変わってくる。逆に、殺されたのが赤の他人だった場合、恋人をかばうこともありえるだろう。そして、より大きな心の動きほど日によって増減があり、人の心は揺れ動くのだろう。その増減の幅が感情的かどうかでかなり変わってくる。私はあまり変わらない方だ。

 増幅された感情は時に大きな力を生むだろう。私は揺れ幅が小さい分安定はしているけれど、絶対的なエネルギーは色々ないみで得にくい。善し悪しなのだろうけれど、そういった激しい心の動きをしているひとたちをうらやましく思うこともある。