閾値と想像そして創造

 とりあえず、出かけるときにはカメラを鞄に入れるようにしている。大抵は歩いているときに周りの風景を見ていると面白いなぁと感じるポイントがある。ポケットにカメラを入れていれば、さっとだして撮るのだけれど、鞄に入れていると、さっとというわけにはなかなかいかない。

 そこで「まぁいいか」と思う場合と、立ち止まって鞄からカメラを取り出す場合がある。どういう閾値でそれを行っているのかは分からないのだけれど、今は出来るだけその閾値を低く持ちたいと思っている。

 自分の中でみた風景を、カメラでこういう風に撮りたいなぁと想像する。実際に撮らなければそれは妄想のままで、実際に撮ると創造される。ずっと書いているように、カメラを持っていることを意識することで、視点が増える。日常の連続だったものの中に改めて色々な風景が存在することを実感する。

 多分、撮らなくても想像するだけでも自分にはプラスになっているのかも知れない。blogのネタを探すと、実際記事にしなくても掘り下げる癖がつくのと同じだ。文章にするためには具体化をある程度行わなくていけない。その書こうとか撮ろうとする行為そのものがシミュレーションとして自分の一つの体験になる。

 最初のうちは、その想像を出し惜しみせず出来るだけ創造というアウトプットにしてしまう。そして、呆れるほど駄なものを排出してから、初めて選定という作業をする。想像の段階で査定せずに創造してから査定する。ここは非常に重要なことじゃないだろうか。

 机上の空論ということばあるとおり、人の想像力はえてして貧困で創造は、よくもわるくも想像を絶する形になることがある。自分からそれを具体的に形にすることで分かることが沢山あることは、この一年でよく分かった。まぁ今更なんだけれど。