デジタルネイティブ

 たまたまおタキさんのDVDレコーダーに録画されていたNHKの番組をみた。子供の頃から水や空気のようにインターネットを使ってきた世代をそういうらしい。

 90年代後半のいわゆるIT革命を境に、身の回りの通信網はどんどんと改良されていった。私が大学にはいった95年という年はいわゆる日本でのインターネット黎明期だったように思う。HPを見るという行為がNASAやWhiteHouseのページを見るということだった事考えれば10数年で恐ろしい変貌をとげたものだ。

 デジタルネイティブという言葉を聞いたとき、一体それは何を指すのだろうと考えた。キーワードのひとつはインターネットだ。単純にコンピュータにふれるという意味では、ビルゲイツを代表する世代から存在しているコミュニティだとおもう。今更なにかを新たに言及することもないだろう。

 だとすれば何が変わったのか、コミュニティのあり方か。いわゆる電話回線を代表する通信網をつかったコミュニケーションというのは、もっと以前からそれこそパソコン通信として不特定多数のコミュニケーションの手段として存在した。それと今のインターネットとは何が違うのだろう。

 答えとしてはスケールにつきる。遠近を無視した不特定との交信はインターネット以前でも可能ではあった。スケールアップしたのは、インフラとしてでもあるしもう一つ大きな点はコミュニティの殻を破ったことだろう。一部の技術指向者の手から野に放たれたとでもいうのだろうか。母集団の質が大きく変わったことが本質的な変化なのだと思う。

 この番組を見たときに、異様に不自然さを覚えた。デジタルネイティブという言葉がインターネットを水や空気のように使ってきた世代というからだ。この言葉の定義を使えば、実は現在の日本人の殆どはデジタルネイティブという話になる。

 技術的な側面からみると、インターネットはより早く手軽に情報を交換できる手段だ。日本ではそれを近親者とのコミュニケーションに特化して成長させてきた。音声データを除いた最初のデジタルデータのやりとりの原点はポケベルだろう。数値しかやりとり出来ないなかで、語呂合わせという暗号化を用いて通信手段として利用し始めた。それがサービスとしてのメッセージになり、ショートメール、やがては現在のメールに至る。そして、現代の若年層の殆どは携帯を空気や水のように意識せずに使う。

 近親者との連絡に特化されてきた通信網が、必要以上の能力を得たとき、情報を交換するコストが0に近くなることによってイノベーションが起こる。実質的な距離というコストを無視できるようになる。これは今まで卒業などをして音信不通になるのが殆どだった人たちとの緩い関係を継続させることを可能にした。

 しかし、日本人の性質的なものか、身内という壁を越えてこのインフラを使いこなす人間たちはまだ他に比べると少ないように思う。そして、その壁を一段越えたとしてもいわゆる今WEB界隈で話題になっているもう一つの言語の壁が待っている。赤の他人というカテゴリのなかに、日本人か否かという大きな壁が存在する。気質的にその壁を越えていくのはかなり難しいだろうと思う。そして、今使われているデジタルネイティブという言葉はそれを越えた人たちを指すのではないだろうか。

 そう考えると、この番組で説明されているデジタルネイティブと、番組の内容がどうも合致しないように思えて仕方がない。諸外国のはなしと日本の話が混在して語られていたけれど、何となくベクトルが違うものにみえた。インターネットというインフラをつかって目指している物が内向きと外向きで正反対に思えるのだ。それも大枠でみれば実は同じことなのかもしれないが、内向きのベクトルでいえば別段デジタルネイティブなんて言葉をつかって話すような内容でもなんでもない。単純に移動速度があがったので世界が見かけ上小さくなっただけの話だ。それは新幹線などの実際の交通手段もそうだし、WEBで得られる出先での情報等いう意味でも。

長くなったので続く