自分という名の関数

 初期の頃のblogの内容と今の内容は随分変わってきたように思う。そもそもは自分の中でもんもんとしていた何かを形にしていくために始めた。鬱屈した思いなんかを書き殴っていたのが実際だろう。

 自分自身が、自分がどういう関数なのか、何を入れれば何がでるかを予測したいと思っていたのかもしれない。自分というニューラルネットワークを学習させるための評価関数を作りたかったのかもしれないな。

 自分がどういう作りをして、自分に対する刺激に対する反応を事前に知りたいと思っていた。それが際限のない自己分析に向けられていて、結局そのことは徒労だったのかもしれない。結局のところ、自分で自分自身のことなんてちっとも分からないというのが結論だった。

  脳とコンピュータの本質的な違いは,目的と手段がちょうど入れ替わっている,ということである.コンピュータの目的は出力を得ることであり,その為の手段としての情報処理の仕方は,プログラムとして人が与える.コンピュータは,入力を得るとプログラムに従ってその情報を処理し出力する.これに対し,脳の目的は情報処理の仕方を獲得することであり,いわば高きに向かって成長するプロセスにある,と言える.脳の目的は,人の生きる目的と考えられるとすると,人生はどれだけのことを成したか(出力したか)ではなく,高きに向かって成長するプロセスにある,と言えよう.

by「人が輝いているとき」 理化学研究所 脳科学総合研究センター 松本元

 以前Pyschsに貰ったこの文章をふと思い出す。

アンラッキーを友達にしろ 出たサイの目を楽しめよ。

 by「青空しょって

 自分の心次第でアンラッキーすら楽しめる。これは心の持ちようで刺激に対する自分の反応をコントロールできるということだ。最初は当然楽しめないだろう。ただ楽しむことを心がけることで自分の心の仕組みを作り替えることは可能だ。ある程度の時間と思いがあれば、自分自身の関数は常に作り替えられるということだ。

 昨日shigureに「最近のblogを見ると充実しているみたいだね」と言われた。それは最近blogには自分が色々な刺激に対してどう感じたかをなるべく書くようにしている。そして、自分の感覚としてのばしていきたい方向へバイアスをかけて文章を作成する。それによって自分自身を変えていきたいから。

 全てが当然達成されるわけではないけれど、意識を持てば変えられるところは良いように変えられる。以前に何度か書いているが、自分が楽しんだり幸福を感じたりするのは身の回りにあるものの絶対量では決まらない。以前に比べて不況なんて言われても確実にものが溢れるいまの日本で、金を持っていることが幸せの度合いを絶対的に表すようには思えない。

 逆説的に言えば、環境がそれほど劇的に変化しなくても、自分が楽しめる方法というのは意外と沢山あるのではないだろうかと思っている。