ずれていくもの

 ワイドショー系の興味本位のニュースがあまり好きではない。例の秋葉の事件でも思ったけれど、あれは報道することによって模倣を増やした感じがかなりある。自己顕示が目的の犯人の要求をかなえてしまってどうするのだろうか。そもそも絶望している人間に社会的制裁は意味をなさない。

 昨日、友人から電話がかかってきて、知り合ってもう結構長い友人が事件を起こしてWEB上に掲載されているという。実際開いて見てみると顔写真どころか逮捕される映像までばっちりと掲載されていた。

 昨年の忌まわしい事件を少し思い出した。一体なにがどこでどう狂ってしまったのかと思う。「彼がそんなことをする人間だとは思いませんでした」とはとても言えない。それは彼だからと言うわけでなく人は誰でも負の面をもっているから。理性というなのタガでそれを抑えているだけだ。

 じゃぁ実際に理性とは何だと問われれば、結局の所それは打算ではないかと思う。そういう意味で、良くも悪くもムラ社会というのは表だったそういったものを押さえつけて来た背景はあるのかもしれない。そのぶん陰にこもったたちの悪いこともたくさんあるが。

 個人主義の名の下、自分たちが社会的動物であることを見失っているようにも思う。そもそも人が生きていく為の社会システムではあるのだけれど、少々自分が社会的弱者になりえる可能性を忘れてしまってはいないかと思う。

 話をもどして、普段ニュースを見ていると、大抵のことは無色でそのままコトバだけが頭の中を流れる。今回の事件で、加害者だけの知り合いとしての視点と、被害者だけの知り合いの視点というのを体験して本当に事件の見方が変わる事が良くわかった。ニュースに色が付いたという感覚。

 地震で1000人の方が亡くなりましたということと、地震で知人が一人亡くなりましたというのでは話の見え方が当然ながら全然違うのと同じ感じ。言葉は悪いが自分にとってどちらが大惨事かと言えば多分後者なのだろう。

 彼の中で何がどこでずれ始めたのかな、ただ何となくそのずれを自分が見てきた気もするのだ。最近音信不通になるまでの言動や環境、一歩間違えればそんなことはあり得なくもないという感覚が、結果論なのかもしれないがあったように思う。

 ちょっと色々考えたがうまくまとまっていない。でも一つ言えることは、yahooのトップニュースを飾るならお祝いのメッセージを贈れるようなことにして置いてくれということだ。