インデックス

 侍の文章を見ていて酒とは直接関係ないけれど、知識は何かということを考えてみた。

「知ること」と「感じること」は一緒ではない。知っているだけで感じようとしなければ、ウィスキーは永遠に愉しむことはできない。例えば、すべての蒸留所の住所と電話番号を暗記することは、何かの役に立つだろうか?少なくとも、ウィスキーを愉しむためであれば、それは必要なことではない。蒸留所に手紙を書きたければ、その時に調べれば良い。

どんなにたくさんウィスキーのことを覚えて来ても、ウィスキーが愉しめるかどうかは、また別の話だ。知識が豊富な人は熱心な勉強家だと思うが、その人がウィスキー愛好家なのかどうか、僕には良く分からない。ウィスキーを(特にシングル・モルトを)飲むために、何だか色々なことを知らないとイケナイというのは、ただの思い込みである。

感じること(7)

 そもそも、知識というのは何だろうかと考えてみた。多分、体験を流通可能にしたインデックスではないだろうか。

 体験として体内にアナログで持っている事柄を「文字化(言葉)」することで流通できるようにしたものが知識で無いかと思う。すなわち共通認識を持つために名前を付ける行為が知識化することでないかと思う。

 たとえば木になる赤くてシャクシャクした実を「リンゴ」と名付けることによって皆がほぼ同じものを連想できる、それが知識ではないだろうか。

 ここで重要なことは、あくまで知識は体内の経験を連想させるためのインデックスにしか過ぎないわけだ。知識をためるということは、体内にある経験を整理し、その経験を有効に活用するという意味と、今後得るであろう体験に対しての入れ物を作ってやる意味がある。すなわち未体験だがそれが「ある」ことを予測することである。

 本などで、リンゴというものを見て知ることは、自分にリンゴの居場所をつくってやったことになる。しかし、実際リンゴを手にしてそれを食べてみるまでは、あくまで場所を作ってあげただけで実体があるわけではない。それ自体も、目にしただけなのか、触ってみたのか、食べてみたのかでも体験はどんどん深化される。知識ばかりを得て、実践をしていない人を頭でっかちとよく言うが、それはインデックスだけの本のようなものなのだろう。インデックスの精度にもよるのだろうけれど。

 侍は知ることは愉しむのに必要ではないといっている。そうだろう。住所を知ることそのものは確かに必要ではないかもしれない。しかし、その住所が自分が行ったことのある場所ならどうだろうか。それが自分の行ったことのある場所で作られたものというのは、色々なことを想像できる。それは愉しみの糧になると思う。

 結局の所、知識に体験という実体があるとき、知識を媒介として体験同士が結びつくときに「感じること」ができるのではないだろうか。

 インターネットやテレビを通じて、体験と知識のバランスが著しく崩れている。そのなかで、知識と体験の区別がどんどんつかなくなっているのではないだろうか。インデックスだけをみてつまらないと判断しがちになっていないだろうか。たしかにインデックスで分かることも沢山あるのだけれど、文字化できないことのほうが世の中まだまだ多い。だとすればインデックスで見て取れるのはあくまで氷山の一角だということを忘れてはいけない。

 そして、知識というものは、そのままでは意思疎通ができない他人との共有のための「名前付け」だということを忘れないでいたい。そして、逆にいえば体験に裏付けされた知識は十分に愉しむ糧になる。

 余談だけれど、私の知っている限りではアーティスト(音楽系)の人たちはそれほどオーディオにこだわったりしないように思う。聞かせる場合の音はともかく、アーティストそのものが聞く機器に関してはそれほどこだわらない(少なくとも私の知り合いのなかでは)ように思う。それは、ある程度の音さえ聞けば、それをインデックスにして原音を想像できるからじゃないのかなぁと思う。体験に強固なデティールがあれば、インデックスそのものはそれほど詳細でなくもそこから自分で補完できるのだろう。まぁ聞いて愉しむこと自体をそれほど目的にしていないからかもしれないが。