情報知覚の飽和

 「三人市虎を成す」という言葉がある。中国の故事だ。

 町の中に虎がいるはずはないが、もし三人の人が虎がいるというと、ついには本当に虎がいるという様なことになる。事実無根のことでも大勢の人が騒ぎ立てると、事実のように思われる。ほうそうが趙(しょう)の国の都邯鄲(かんたん)に、人質として捕らわれていた時の事、国王の魏王(ぎおう)に、もし誰か一人の人が町に虎がいると言ったら、それを信じるかと問うと、王は、信じないと答えた。そこで、「では、二人の人が、町に虎がいると言ったら信じるか」と問うと、王は疑うだろうと答えた。では、「三人の人が、町に虎がいると言ったら信じるか」と問うと、王は信じると答えた。という故事による。根も葉もないことでも、多勢の人の口からくり返し言われれば人は信用してしまう。

 この故事ではたった三人だ。あくまでたとえ話だが、それでも市場には恐ろしい数の人がいることは確かだ。たった三人の言葉が多勢に変換されてしまう。それが人というものなのだろう。

 先日ノイズについての話題で盛り上がったが、そこには常に対になって「フィルタ」の話題がついてくる。WEBが出来て情報が溢れていると言っているがどのくらいの情報があれば逆に溢れてると感じるのだろうか。

 普通、人がWEBから何かを調べたいと思うとき、検索エンジンを使うのが一般的だろう。その中で検索結果というものがどれくらいの数出てきて、そのうちのどのくらいが把握可能だろうか。平均すれば1ページ強になってしまうのでは無いかと思う。自分自身、何かを調べるときに「自分が求めている答え」(≠「事実・真実」)を見つけた時点で検索をやめてしまう。

 以前読んだ本の中で、アインシュタインが「自分と凡人の違いは、わらの中の針を探せと言われたときに普通の人は針を一本見つけるまで探す。私はわらの中の全ての針を探す。」と答えたと紹介されていた。私も一般人の口だ。

 いわゆる脳内フィルタは、把握したものの中でしか適応することが出来ない。検索でいえば大抵1ページ以内の中、多くても5ページぐらいのものだろう。そのなかでフィルタリングを行うことは、「三人市虎を成す」ならぬ「三ページ市虎を成す」という話になりやすいように思う。

 WEB上に溢れる情報は、人の認識能力を想像以上に越えている。今が転換期ということもあるけれどその認識誤差は激しい。たとえば2CHはWEB上で相当大きなコミュニティと言えるが、実際は相当書き込んでいる人間というのは偏っている。いくら巨大に見えてもあくまでニッチな指向のある集団なのだ。今まで現実世界では移動等の制約からそれほどニッチな指向をもったものが一同に介することは無かった。そこにスケール観の認識誤差がもろに影響する。「100人がこう言っていた」の100人の質が現実世界と相当違うことをどれくらい認識しているだろうか。

 たとえて言うなら、北海道は広いなぁという感覚の持ち主が、別の地球へ探査衛星をとばして、たまたま着陸したサハラ砂漠を北海道分の広さ調査して、この星は砂しか無かったと言うような感じだろうか。

 問題は母集団の本当の大きさが誰にも把握できていないことだ。blogで犯罪告白をしたりする背景には、今まで自分が扱ってきた母集団スケールでWEBを判断していることが背景に透けて見える。そして、それはネガコメなどに対する反応にもおなじことがいえる。現実社会でのコミュニケーションで選り好みをし、類似性の高い少数の集団を作ってきた人たちにとって、現実ではたった一人のネガコメであってもなかなか体験することが無いのだ。

 それがWEBにさらすことによって、それこそ何十万人の中の十数人からネガコメがつく。あくまでその人にとって、母集団は自分の体験により想像されているのでWEB全体から攻撃されているような気分になってしまう。

 ようはその中でフィルタリングしろといわれても無理なのだ。フィルタをかけるべき母集団をきちんと認識出来ないのだから。そして、大抵の人は自分が見てきた以上のものの存在をはっきりと関知は出来ない。どこまで母集団を広げられたかが、いわゆる「ネットリテラシー」の基になる。そして、個々人がネットリテラシーをある程度もつにはWEBの母集団は広すぎる。

 私たちは「自分自身がフィルタをかける」という行為は相当偏った中でかけているに過ぎないことをもっと自覚しなければいけない。母集団を常に疑いながら情報収集をしていかないと酷い目に遭うのではないだろうか。そして、いわゆる「ノイズ」と思っていたことが実は本筋である可能性もそれほど低くは無いのかもしれない。

インターネットの黎明期(まだPCが一家に一台でもなく、携帯ブラウザもない時代)においては、「趣味・嗜好を同じくする仲間捜し」が主たる目的であったのに対し、今ではそれが「同じものを一緒に叩ける仲間捜し」にシフトしてきているのではないか。特に、ネット耐性の低い若年層や、自称中級者な人たち。
WEBノイズキャンセリングという進化の虚しさ

 これは、意識的か無意識かは別として、母集団の大きさを無視することで、マジョリティ(偏った母集団の中でのマジョリティ)としてマイノリティを叩く快感を求めているのだろう。赤信号みんなでわたれば怖くないとおなじ思考だ。現実では100人規模で何かを叩ける機会は殆ど無い。

 この場合スケールを意識的に無視してやっている人と、無意識にやっている人どちらの方が本当にタチが悪いのだろう。