違和感

 秋葉原の事件なんかを見て思うのだけれど、ああいった事件の報道にまったく意義を感じない。

 ワイドショー的な視点が嫌いだというのもあるのだけれど、ああいった行動を取るというのは一瞬でも花火をあげたいという自己顕示欲の変形も少なからずあるように思う。取り上げれば取り上げるほど抑止よりむしろ事態を悪化させているようにしか思えない。自殺なんかは特に顕著ではないだろうか。

 whoによる自殺予防の手引きでも報道に関してはかなり慎重であるべきだと述べられている。

 テレビもまた自殺行動に影響を及ぼす。テレビが自殺のニュースを伝えた後は10日後まで自殺が増えることをPhilips は示した。

 こういう事実が存在するならば、もう少しデリケートに考えるべきだろう。

 事件があったことを知る意味って一体なんだろう。正直なところ私はこういったことに無関心なのでワイドショーやニュースはほとんど見ない。無神経な関係者への取材などを聞いたりすると、本当に馬鹿馬鹿しいとおもってしまう。

 今回の事件では、現場が秋葉原ということもあり、手持ちのWEBカメラで現場を中継してネットにあげていた人たちもいたらしい。その行為に関して高揚感を感じたという記述も見かけると人は本当に残酷だなと感じてしまう。嫌悪感をもつというよりも人の好奇心は対岸の火事にたいしては本当に無邪気なんだと思う。

 今回のことで、また刃物に対する規制は強まるだろう。あの辺りではツールナイフを持っているだけで取り締まられたという記事などを良く目にする。道具が便利で安全になった分、危機感が無くなっている。刃物というむき出しのものの危険性を遠ざけることで、感覚でなく理屈でしか危険性を理解できなくなっているのだ。生活からツールとしての刃物が駆逐されていく状況の中ではそれは仕方のないことかもしれないな。
 
 通貨というある種万能のツールが登場して、世の中の役割はどんどんと複雑化して専門化されていく。自分に関わりのない分野との距離は広がるが成果は分からずに利用している。そのことが多分、たとえば食料じたいは何かの生命を奪っているという認識を無くす、結局誰かがやっているだけで無くなってはいないことを無いことにしてしまっている。それがひずみの原因の一つだろう。

 コミュニティが広がって、全体にしめる自分の割合が減れば減るほど、自分の無力さを感じるようになる。その中で今あることの要因が自分にあるのか社会にあるのか区別がつかなくなっていく。そして無力感に苛まれていくと、何かしらの形で社会に影響を及ぼしたくなるのでは無いだろうか。

 死は隣り合わせなのだけれど、今の日本でそれを感じることはほとんど無い。価値は、希少性によって決定される。良いものであっても数が増えるとそれは普通になり、相対的に価値は下がる。そういう意味では今の日本で安全の価値は相対的に軽んじられているのでは無いだろうか。