ココロの重軽

 ほんの一言でこころが重くなったり軽くなったり。感情というのは本当にままならないものだな。

 体験するまでは、心理的な要因でご飯が食べられなくなるということが信じられなかった。大学生のころ、あれだけ食べていた自分が、生協の食堂でかつどん一杯を食べきれなかったとき「人間こんな風になるんだなぁ」としみじみと思った。

 当時は食欲の権化みたいなもんで、一食で3合近いごはんを食べていた頃だったから病気ではなく心的なことでまさか並のカツ丼が食べられなくなるなんて思いもしなかった。普段はあまり実感することはないけれど健康と精神というのは本当に切り離せないものなのだろう。

 最近周りで鬱になっている人が多い。もともとその気を多少なりとも感じる部分があったひとたちなので心情的にはそうかという感じだ。

 職場の関係だったり、自分の環境だったり、男女関係だったり原因は色々だけれど、少なくとも自分と親しいひとがそういう気配をかもし出したとき自分が何ができるんだろうかと悩む。

 鬱は脳内物質の分泌バランスが狂う病気だという認識はあるようで薄い。理屈では病気であるということは知っているので「気の持ちようだ」と安易な叱咤激励はしないようにしている。そういった周りの安易な激励で深みにはまる人たちがいるのも確かだろう。

 ただそれと同じぐらい、本人も自分のせいにして病気として認められないところもあるのだろう。言い換えれば「骨折を気合いで治せ」「骨折を気合いで治す」と同じぐらいアナクロな思考なんだけれど、傷が表にでてこないことだけにありがちなことになるのだろう。

 そこでまたもう一つ悩む。「病院に行った方がよいんじゃないか」という言葉は「元気出してがんばれ」というのと同じぐらい諸刃なんじゃないかと。アナクロがまかり通っているというのは、同じぐらい偏見があるということだ。病気として認めてしまうと自分が崩れてしまうとおもっても仕方がない部分がある。

 そんなことを考えると、傷ついたり病んだりしている彼(彼女)らに対して一体私はなにができるのだろうと思う。色々考えると責任をとれるひとが声をかけることしか出来ないように思う。治ってほしいと思うことと、実際に治すことは全く別の話だ。素人が手を出して善意であれ悪化させてしまえばお互いにとって不幸なことだろう。

 ただ、そうは思いながらも、自分が離婚だなんだと一番苦しかったときに、akdやじゃんごをはじめとする面々に話を聞いてもらえたことは自分にとってとても有り難いことだった。そんな風に考えると、押し掛けじゃなくて求められたら出来ることはしてあげたいと思ったりもする。ただ、それをすべて受け止められないぐらいの量がきた場合、一度よりかかってこられて支えたつっかえを、途中ではなすような羽目になることがあることはやはり忘れてはいけないのだろう。聞く方にも最初にそれだけの覚悟をもたないといけないのだろうな。