「ありたいこと」と「なりたいこと」

 「梵天丸もかくありたい」というのが昔ありましたが、目標を決める時に「ありたい」と思うだろうか、「なりたい」と思うだろうか。

 「ありつづける」ことは本当に難しい。もっと有名な例でいえば「初心忘れるべからず」の類になるのだろうか。

 基本的に、「ある」のは「なる」ための手段だ。ということは「ある」ということを主命題にするのは本末転倒なのかもしれない。しかし、私は何かに「なる」ことにはそれほど魅力を感じていないのかもしれない。そのあたりがジョニによく突っ込まれることなのだろう。

 私の考えでは、「なる」ことも結局のところ過程をもって初めて意味をなすように思える。過程を無視した状態をいきなり与えられるということは、ほとんど意味が無いように思うのだ。ゲームに勝ちたいけれど、必ず勝つことが分かっているゲームをやる人は少ないということだ。

 多分色々なことは、絶対的なものではなく相対的な変化によってのみ初めて実感を伴う。それを他人を軸にするか過去の自分を軸にするかの違いはあっても結果そのものには本当は意味は全くないのかもしれない。