記録映像の妙

 デジタルカメラの普及で随分と写真をとる人が増えたのだろうけれど、その使い方は消費的で今までよりも残されている点数はむしろ減っているんじゃないだろうか。

 デジタルデータは意図的に残さないととかく消失しやすい。銀塩写真のように昔の写真がふと出てくることはたぶん少なくなるのだろう。実は写真に撮られるのはあまり好きではない。正確には取られることよりも素の自分自身が見えてしまうからだ。録音した自分の声を聞く感じ。

 写真は、連想的な思い出だ。切り取ったワンシーンから記憶を呼び起こして懐かしむことが多い。それに対してビデオなどの動画はそういった余地をあまりない。そのぶん見るためには多くの時間を拘束されて効率的ではない。

 動画はある程度の編集という作業がなされて初めて有意義な記録となるのだろう。単純な事実の記録は、確認するのに実際に起こったのとほぼ同じぐらいの時間を必要としてしまう。忙しい現代でそれはあまりにも不自由だ。

 だとすれば今後動画を簡単にもっと撮れたとしても、やはり思い出の主流は写真になるのだろう。Wongさんが以前、写真を撮ることは何を撮るかではなく何を切り捨てるかということだよと教えてくれた。すべてをとらえきれない不自由さが逆に無意識に編集という作業になっているのだろう。

 周りにカメラ愛好家が多いせいか、時々自分もカメラがすごくほしくなる時がある。でも結局、自分が取りたいような映像は取れないことは分かっているし、記録を取るよりもその場で楽しもうという気持ちになってしまうことは今迄からわかっている。

 まぁそれでも、数少ない過去の写真をみることは確かに楽しいのだけれど。