プロフェッショナル

 夜分に社長から電話があり、NHKの仕事の流儀を見てみろと言われた。WEBデザイナー中村勇吾さんが出演されていた。阪神4連勝の余韻を感じながら画面を眺めていた。

 自分も場末ながらWEBクリエイターの端くれになるので、見ていると感心させられることが多い。というよりも自分の甘さをほとほと痛感する。表にでている作品の裏で重ねられた試行錯誤の数がまるで違うことを痛感させられる。多分これが決定的な質の差なのだろう。

 プロフェッショナルといわれる人達は、更に先を求めるその性分を持っている。更にもう一歩踏み込むことが次の階段を上らせるのだろう。

 以前にも取り上げた

 「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」と言う。「じゃあ、悪い案を幾つか見せなさい」と言うと、きょとんとした顔で、「いえ、悪い案も思いついていません」と言う。「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。

http://blog.mf-davinci.com/mori_log/archives/2007/12/15/index.php

 これを痛感させるような内容だった。この番組で司会をされている茂木さんのblogで以下のようなことが書かれていた。

自分の教育を、他人任せにしては
いけない。学校任せにしてはいけない。

自分で自分を教える。
これが、教育の基本である。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/professional/2008/03/post_d2bc.html

 この言葉は重い言葉だけれど、果たして自助努力によって何かを得ている人はこのことを「教育」だとか「勉強」だとか思っているのだろうか。「〜でなければならない」ではなく「〜したい」という原始的欲求にしたがって彼らは知識を吸収しているように思える。好きだからやっている。好きだから突き詰めるその先にプロフェッショナルとしての仕事があるように思えるのだ。

 Psychsは言う「仕事でいくらコードを書いても駄目だよ、日常仕事を離れてどれぐらいコードを書いているかがその人の力になる」だとすれば、仕事を離れてコードを一切書かない自分は、多分価値的には恐ろしく低いのだろう。そしてそれはその通りだと思う。(作業者としてのスキルは別だろうけれど)

 自分の周りで活躍している人達のモチベーションには驚嘆することが多い。義務感のなかで何かをこなしている間は、多分私は何かの殻を破ることは出来ないだろう。義務感を突き抜けられることが才能なのかもしれないけれど。

 こういった分析風なことを書いている自分が好きではない。それでも、よくわからなくても、あがこうと思う。何かを見てそれはそういうものだと思った後、自分のなかでどんな形を出せるか。自分が何をできるのか見てみたいと思い始めた。怠惰や妥協はやる気になった自分に上から降りかかる粘体のようなものだ。動きを鈍くして前に進みづらくされる、つねに動けない自分がいる。その中であがいてみるのも一興だろう。今居る自分の位置よりもう一歩でも先へ。