題名の無い葛藤と

 ねじまき鳥クロニクルを2巻まで読了した。読んだ村上作品のなかでは一番何かを感じたかもしれない。それにしてもこの人の世界観は本当に夫婦生活は破綻するものなんだなぁとふと思った。

 この本に感じる部分というのは、自分に置き換えるからなんだろう。自分が離婚というものを経て感じたことがそのまま作品になっているのかもしれない。一巻を読み終わった時点でも何かを書こうと思ったのだけれど、あまりにももやもやしていることだから書きかけて止めてしまった。

 気づいて欲しい欲求と、でもそれをこちらから知らすことは出来ないジレンマというのがある。さりげなく気が付いて欲しい、そこから滲み出るサイン。押しつけたくは無いけれど耐えられないもの。全ては終わってから、それも時間が経ってから気が付くことばかりだ。

 思い返してみると、あれもこれもサインなのかもと思う。実際そうなんだろう、至極遠慮がちにお願いされたことを本当に深く受け止めていなかったことが沢山ある。そして、それは今もそうなんだろう。我慢されるにしろ、それならもういいやと思われるにしろ、その結果は唐突に振って沸いたように見えるものだ。原因はアナログに積み重なり結果デジタルに表現される。

 「好きだから許せること、好きだから許せないことがある。好きなことは全ての免罪符になると思ったら大間違いよ」といわれたことがある。「おれはなるね」と返した。実際の所はどうだろうか。冷めることと許せないことは全く違うことだ。冷めていなければ受け入れられると私は思ってしまう。ただそう思わない人がいるのも事実だ。人種の問題だろう。

 自分の中の何かが変わるのは事実だろう。本当は許すことと言うのは冷めることと同義なのかもしれないな。でもどちらかといえば私は破滅的な思考なので、決めたらそれに殉じるんじゃないかな。だから宗教なんかにはまったらサリンを撒く類の人なのかもしれない。社会通俗的な善悪はそれほど重要だと思っていないから。

 それでも、狂信というほどははまり込めなくて、どこか冷めた自分がいる。そのあたりが鬱になったりしない所以なのだろう。熱くなりたいと思えば思うほど冷める体質。どこか一途で、それでいて冷める。自分自身のことはやはり良くわからない。

 ねじまき鳥を読んで、おたきさんが村上春樹を読んでみたらと言った理由が少し分かった気がする。