問題解決のサイクル

 最近購読しているblogから

友達はオレの顔をじっと見つめながら、一言、

「だせぇ」

と言いました。
ごちゃごちゃ言ってるけど、勇気がないだけじゃん
要は、勇気がないんでしょ?:Attribute=51

 guri_2さんのエントリーには共感することが多いのですが、今回の話は特に自分が今年問題にしていることの答えだなぁと思っていたことなので取り上げてみる。

 ここに上げられているのは女性関係の話なんだけれど、こういう(個人的に)閾値が高めの話ばかりではなくて自分の気付きを行動に変えることに理屈をなるべく持ち込まないようにしている。傾向的にどうしても頭でっかちになって、最後はあのブドウは酸っぱい理論で逃げることが多かったのだけれど、それがつまらなくなったから。

 記事では「勇気が無い」という話になっているのだけれど、これはguri_2さんがどう解釈しているかは分からないのだけれど、行為そのものを行う勇気が無いというよりも未知への恐怖ということだと思う。凄い似ているように思えるけれどすこし違う。

 こういう時に行動出来ないのは、自分で理想を現実に落とし込むというプロセス作成をしたことが無いことが原因だと思う。行動と結果を結びつけられたものを渡され続けてこられた結果、自分で過程をそのものを制作することが非常に不得手になっていると思うのだ。

 本当はこのblogともう一つ別の記事を合わせて話をしたかったのだけれど、記事自体がどこにあったか思い出せないので概要だけまとめると、「床に一万円札が落ちたとき、それを拾うとき無意識にしゃがんで普通に拾う。それができる人には考えることもなく当たり前のことだ。無駄に考え込む人はどうしゃがめば効率的だろうか、膝の角度は、手は右手がいいだろうか左手がいいだろうか、等々色々考えてしまう。それは作業を効率化させるためのプロセスのように思えるが非常に馬鹿馬鹿しいようにも思える。普通の人間はどうでもいいからさっさと取れよと思うだろう」というようなものだった。

 これは極論に思うだろう。しかし、これはそんなに笑い話でもない。そしてこういう笑える事態の原因はなにかといえば、習慣化されていないことにつきるのだ。ここであっさりと拾える人は、ものを拾う行為を数限りなく繰り返して、良くも悪くも条件反射になっている。

 これが、「勇気がない」の正体ではないか。目的の為に行動するという習慣づけがされていないのでそうすること自体に違和感や恐怖を感じる。そして小さい頃からそういった習慣をつけてきた人間にとってはそうすることは当たり前で何故しないのか分からなくなるのだ。これは意志の問題でなく単に慣れの問題だと思う。

 そして、この慣れは決して大事ばかりでなく小事から積み重ねないと達成できない。これは、詰め碁に似ていて、一手の問題が条件反射で解けて初めて三手の問題をある程度考えることができる。一手の問題を解けない状態で三手を解くのは解けないわけではないが、相当の労力を要する。その差が一手の問題を解ける人には非常にわかりにくい。なんでこんな簡単なことが出来ないんだろうという話になる。

 上記の記事のなかで、女性関係の話と、職場環境改善は要因の複雑さが多すぎて一緒に出来ないと述べている人がいるが、本質的には同じだ。それはただ「手順が多い詰め碁」にすぎない。確かに、いきなり十手の詰め碁をいきなり解くことは不可能だろう、しかし手順を踏んで、一手の詰め碁から始めることでいつか複雑な問題を解くことが出来るかもしれない。段階があるというそれだけの話だ。

 たしかに、「やればできる」という精神論だけで解決しないことは多い。しかし、出来ないことと同じだけ出来ることもある。そして、勢いだけで解決されたとしても一度解決することは経験という糧になり、今度は同じことを勢いではなく根拠を持って物事を行えるようになる。そうして、やればできる理論で自己繁殖をすることで「やればできる」可能性を増やしているのだ。どこまで到達できるかは当然人次第だ。そして到達してしまった人は当然「やればできる」でなんでも解決できるという結論になってしまう。良くも悪くも。

 「風が吹けば桶屋がもうかる」という言葉がある。トンデモメソッドのように良く言われるが、偶発的ではなく能動的にそれを誘導すれば、風が吹けば桶屋は儲かるのだ。