幸福論

 怪しい宗教みたいな話しになってしまうのだけれど、最近の一連のエントリについてもう一度自分の中で消化しなおしてみた。

 前回のエントリで「変化」という言葉を使ったけれど、これには受動的変化と能動的変化があって、前回の使用した「変化」とは後者を表しているつもりだ。

 もう一度考え直す切っ掛けとなったのはhide-wさんのコメントなのだけれど、

 「具体性がない」と言われる所以の文章だね。「(自分の)何を、どのように」変化させるか、書いていない。

 この文章に関しては完全に文意を取り違えている、私が言いたいのは何をどのようにという具体性が問題ではなく、変化(能動的に)させることその物が「幸せでいる」ことだと言いたい。そこが前回最後に述べている、「幸せになる」ことではなく「幸せでいる」という言葉を使った理由だ。

 
この「しあわせ」という概念にはパラドックスがあって、考えれば考えるほど不幸になるという側面がある。

 これも私に言わせれば当然の話で、「幸せになる」という状態は実はいくら考えてもあり得ない。時系列を無視して状態をもって幸せになれるのなら、前回も述べたとおり未来の人は基本的にに現在の人より幸せになっていくことになる。しかし、そうはならない。それは、しあわせは常に相対的で、何かと比べたときにその差分によって初めて得られるからである。

 この相対的という言葉が曲者で、その比較対照を他におくか、時系列上の自らに置くかでも相当変わる。江戸幕府が執り行った「下見て暮らせ」という不満防止策はそういう意味で相当狡猾な政策だったと思う。

 この他者との比較によって幸せを得ようとすると、自分が幸せになるためには相当の苦労が必要だ。追い越せない他者をうらやみもするだろう。そういう意味では、情報流通の手軽さによって「井の中の蛙」が減ったぶん幸せを感じる人の割合は減ったのかもしれない。そう考えると不幸なことだ。

 「知らないものとは比べようがないので不幸を感じない。手が届かないものを知ってしまったが故の不幸がある」

 以上のことを前提として、私は無駄に不幸に感じることをやめた。比較対照を他者から自分に置き換えて、過去の自分との差分に目を向けることにした。それが「変化し続けて幸せになる」と前回括った理由だ。

 変化させない方がいい場合もある。たとえば、収入の上昇とともに金銭感覚も変化するならば、それは単なる「成金趣味」になってしまう。

 そしてもう一つ、変化することが良いということと、変化しないことが良いということ、これは社会でも両方論じられている。一見両者は矛盾しているように思い、どうなんだろうとずっと考えていた。

 これは、最初に述べた受動的変化と能動的変化という考えである程度まとまった。人の移動と同じく、能動的変化をしようと思うと、思想的にどこかが固定されていてそれを軸にしないと思うような変化は出来ないという事である。全てが変動するというのは自制できない変化であり、足のつかない激流に放り込まれたようなもので流されてしまう。矛盾があるように思えるが、人は「変わらないものがあるからこそ、それを足がかりに自分を変えていける」のだ。

 そして、これは具体的にどう変化させるのかがよいという話ではない。それは、あくまで幸せを感じている人が自分はこう変化してきて幸せだったと述べているだけで、それをトレースすることには何の意義も意味もない。他人の具体例を追い求め続けることが「青い鳥症候群」の正体だろう。あくまでその変化の源泉は自分自身にしかない。

 実際、この結論に関してもあくまで私の中の真実にしか過ぎないのは確かだ。是非なんて無くてただ私自身がこう考えこれに準じてこれから生きていくというただそれだけの話だ。