そんなもんかな

 ジョニとIRCで話していると、アフロのblogの内容は囲碁とか陶器とか酒の話は、具体性が高くて何をどうしたいか良くわかるが、思想については書生臭い机上の空論ばかりで、それをどう実現するかの具体案が無くないかと突っ込まれた。

 囲碁やら酒の話は、当然具体的な対象があるので、それぞれの事象についてどう感じてどうしたかという体験記が多いのでそうなるだろう。思想論については、この前の教育の話のように他人が関わる事の場合具体的対策を伴っていないことは確かにある。しかし、基本的に思想は行動原理を説明しているので逆に具体論を敢えて書いていないこともある。

 行動原理はあくまで原理であって具体的ではない。こういうときにそうしたいという話ではなく、普段の心の持ちよう(もしくは自分がどうありたいか)を晒すことで、自己達成予言的にしてみたり、自分の備忘録であったりしている。どちらかというと自分自身をより突き詰めて考えるためなので具体的では無いのかもしれない。

 私は、ぱっと見それほど色々な事をやっているようには見えないらしい。行動派かどうかは別としても、起業も経験したし結婚して離婚したりもしている。ジョニにいわすと色々やって失敗したりしているわりには青臭いように見えるらしい。

 そのあたりは色々と、異論反論があるかもしれないが、私は色々な失敗をした上で尚かつ夢見がちに青臭く生き続けることを選んでいる。堅実に平穏にというのはなかなか難しいだろうとおもう。残念ながら最初に大学院を中退して起業した時点で普通の道筋からはスピンアウトしてしまった。かといって世の中を一人で切り開いてよじ登っていくほどマッチョでも無いわけだけれど。

 すくなくとも、私が数々の失敗を繰り返しながらも、青臭くいられるのは周りの人にとても助けてもらっているからだ。傍目から見たら考えられないぐらい色々と失敗している割には、自分自身はそれほど不幸だと思っていない。両親は呆れかえっているけれど。

 なんにしろ、私はこれからもずっと、自分がどうありたいかを考え続けるだろうし、自分をなんしか変化させていきたいと思う。多分物理的に裕福であることが幸せなら、過去に比べて人類は皆幸せで溢れていないといけないはずだ。過去がそれほど絶望的で無いように、未来が以下に発展してもそれだけで人は幸せになれないだろう。

 結局の所、最近ずっと書いているように、自分を変化させつづて自分自身に刺激を与えつづけることが唯一しあわせでいられることなんじゃないかなと思う。幸せで「いる」ことは出来ても多分幸せに「なる」事はできない。何故なら、それは状態ではなく状態の移り変わりそのものだから。