幸福論の背景にある縁

 先ほどのエントリの結論を先週末に悩んでいた。自己完結が出来ないまま、もんもんとしていたのだけれど、色々と頭のなかで整理できる出来事があった。

 hide-wさんのコメントを受けて、一番頭を悩ませたのは、変わることと変わらないことの関わりだった。変化を尊ぶことは変化しないことを辱めることなのか、その関係は何なのだろうとぼんやりと考えていた。

 その際に、先日礼状を書いた方からの返信がはがきで来ていた。もともと字を綺麗に書こうと書き取りを始めたのは前回、その方に礼状を書いた際にどうしても字が書けず、ワープロで印刷した物を送ったことで、他人がどう感じたかは別として、ともかく自分自身の中で忸怩たる思いだったからだ。別に電子メールが悪いと思っているわけではない、単純にTPOの話だ。そういう意味では今回の礼状は自分なりの想いを形にして伝えたということで自己満足していた。

 その返信ハガキの真ん中に大きく「松樹千年翠」という言葉が綴られていた。禅の用語で変わらぬことの大切さを述べた言葉という説明が添えられていた。丁度変化について考えていただけに、とても重みのある言葉だった。そしてもう一度変化について色々と考えてみた。

 その手紙の中にもう一つ、「一期一会」という言葉も添えられていた。千利休の茶の心といわれる言葉で私も昔から好きな言葉だ。それを見たとき、同じ利休の言葉で「規矩作法 守り尽くして 破るとも 離るるとても本を忘るな」という言葉を思い出した。剣道で良く言われる「守破離」の原典だ。

 自分の中で、「あぁ、これだなぁ」という感じがした。あくまで自分の中でとはいえ、全ての色々なことがつながった。この繋がりは私にとっては凄く大きい。

 以前、Psychsと考え方の話をしていたときに、「自分の立ち位置」という言葉を私は使った。Psychsに「立ち位置とかそんなこと言ってる間は駄目だ」と言われて色々話されたけれど、そのときはいまいち納得出来なかったところもあった。何がどうと具体的に言えないのだけれど、そのときPsychsが説明してくれていたことが少し理解できた気がする。

 そして、「守破離」という言葉は以前から知っていたのだけれど、それが利休の言葉だと知ったのは、先日佐川美術館に行った際に陶器の展示室の名前が守、破、離となっていて、ホームページでそれを確認したからだ。そして今回の一つのキーは最後のフレーズ「本を忘るな」である。これは変わらないものの上に変化が成り立つという本質が表されている気がした。そもそも私は、「守破離」の言葉を変化のあり方だけを示すものだとおもっていて、最後のフレーズの存在を知らなかった。本当に不思議なものだ。

 たまたま、日曜日に美術館のお茶室を借りて桃の節句を友達同士で楽しまないかという誘いを受けていた、丸一日美術館の中を散策したり、闘茶や、百人一首囲碁をして、お茶席でお茶を頂いたりし、その合間に美術館のサンルーフで庭を見ながらそんな結論を出した。

 家に帰ると、母親が何故か「松樹千年翠」と書かれた書を持っていた。事情を聞くと私宛の返信を、たまたま目にして習字に行った際にその言葉を書いていたらしい。その際に、木原研石先生が良い言葉だねということで、その場で書いて下さったらしい。ちょうど私の部屋の床の間もどきに飾るものが欲しかったので、次にまとまったものが入れば、表装して飾ろうとおもう。これも何かの縁だろうから。