大学のこと2

その1

 ジョニがコメントで意識を変えることについてマクロとミクロな視点でなんか書いてくれと言うので書いてみる。syuuあたりに言わすと、私の全体論は意味がないと言われるのだけれどまぁ興味があれば見ていってください。

 大学のことで、道具じゃなくて意識の問題だよと書いた。子供達の意識を創り上げるのは誰かといえば、間違いなくそれは社会であり、主に家庭になり親といっても過言ではない。

 受験勉強が加熱した私たちの世代は、皆が競い合って受験戦争と言われた時代だった。その風土は何処にあるかといえば、もとは戦後間もないころ、経済的理由で進学できず涙を飲んだ世代の亡霊だといえる。自分たちがもっと余裕があって進学できていればもっと良い生活ができていたに違いないという妄想。それが80年代の受験戦争を生んだともいえる。

 その熱を受けた世代が少しずつ巣立ち、自分たちが置かれた受験戦争といわれるものの実態を肌で感じてしまった。良い大学で良い企業、そして良い生活へというキャッチフレーズが幻想に思えたとき、自分たちの子達へ一体何を勧めれば良いか親たちが迷っているのだ。

 子供達にとって、勉強は普通苦痛だ。それを続けるためには希望が必要だ。みんな勉強したいからしている人は希で勉強の先にある何かを求めるからこそ進んで勉強するのである。自分たちの親を見たとき子供達はいま失望しているのではないだろうか。受験戦争ののろいから始まり、不況によるリストラなど良い話は聞かない。今、尊敬され憧れられている親というがどれぐらい存在するだろう。

 これがもう少し、酷くなると生きることに苦しみ始める。そうなると生き甲斐とかそういう話ではなく、生きることに懸命になっていく。しかし、困ったことに今の日本では生きることその物がそれほど不自由では無いのだ。すくなくとも餓死する人間があふれるような国ではない。いわば生きてはいるけど生きがいがない飼い殺しの状態なのだ。

 だとしたら、何を変えるべきか。端的にいえば、自分を変えるべきだと思う。いま、若い人達がどうとか教育を案じたりしている人達は、皆自分の胸をはって子供の前で「私は幸せだ」と言えるだろうか。自分たちがまずどうやって本当の意味で幸せになるかを考えないと事態は好転しないように思う。子供はいやでも親の背中を見て育つ。

 一番身近な人間が本当に幸せそうで、自分もそうなりたいと子供達が自分たちで思えば、ガミガミ言うこともなく話し合うことができるだろう。教育とはそういうものじゃないんだろうか。どういう生き方であれ、自分に誇りを持てる人間が増えればどんなやり方でも状況は良くなっていくと思うよ。