大学のこと

 今日は偶然だと思うけれど、大学に関する話題が周りでとても多かった。なかなか興味深かったので長くなるかもしれないけれどまとめて見ようと思う。目にとまったのは以下の記事と、えもんさんの放送大学の話し。

 僕は今高2なのですが、今迷っているのは、東大に行くか?それとも留学するか?ということです。東大に行くというのは僕の周りの大人の人たちの言う最善手です。でも大きなスパンで考えてみれば、東大よりも留学したほうが得られるものは大きいし、自分の視野もぐっと広がると思うのです。
前途ある高校生に書き送った言葉
 
また、一流大学に入ればその後は良い会社に入れて安泰な人生を送れると言われさえもした。だが、今はどうだろう。良い大学に入って良い人生をなんてどこぞのキャッチコピーにもならない。
日記2/15

 まなめさんが言うところのキャッチコピーは、私たちの年代がよく聞かされた言葉のように思う。高度経済成長期は確かにそういう方程式があるように大方の人には見えていた。しかし、それが今ではキャッチコピーにもならない。何故だろう。

 実際、それが形骸化した理由は、結構身近なことなのかなと思う。当初、大学は最高学府であり、一部の選ばれた人間が行くところというものだっただろう。それが経済成長によって誰でも大学へ進学する余地が出て、大学という選択肢も増えた。

 ここで大学の本質を考えると、学習も含めた「場」といえる。機会という名の道具だ。本来、大学を出た人間が優秀だというロジックではなく、優秀な人間が大学という「場」を利用して自分に磨きをかけていたわけだ。

 大学自体はあくまで場であって、勝手に何かが育っていったりする場所ではない。だから、大学を出たら優秀になるわけでは無いのだ。それは、PCが安価になり皆が所有できるようになってフォトショップイラストレーターが簡単に手に入ったとしても、誰もがデザイナーになれないのに似ている。

 では昔に比べて、駄目なのかといえばそういうわけでもない。より手軽に大学という手段を利用できるようになったせいで、今まで学習機会が得られなかった人にそういう機会が与えられてはいる。絶対数で言えば、大学のおかげで自分を磨けた人は増えている。それ以上に磨けなかった人が増えているだけだ。そういう意味での効率は下がっているのかもしれない。それが大学というブランドの価値を下げているのだ。これは、WEBによって一般人が得られる有益な情報が増えた以上にゴミ情報も増えたということと同じだ。有益なものだけと思いがちだが、基本的にそれを分別することは出来ないだろう。(ある程度は可能だろうけれどそれをすると揺らぎが無くなってしまい硬直する)

 今の日本での大卒、高卒の違いはなんだろうか、最大の違いは経験の多様性の部分が大きい。義務教育+高校と大学では同じ学校でも全くと言っていいほど形態が変わる。その経験の違いが一番大きい。残念なことに学力的に言えば、大学をでることでむしろ高校当時より学力が下がることのほうが多いのでは無いだろうか。(これは本当に勉強に特化した意味で)

 大学のランクと言われるものの意義はなんだろう。正直なところ、偏差値に応じた高度な授業を受けられるというわけでは無いように思う。最大の違いは人、一緒にいる人の質だ。箱としての大学に違いは実はほとんど無く、中に入れられる人の質によってランクは形成されている。だとすれば、つとめて大学で高い付加価値を見いだそうとすれば、より多くの人と出合う機会を持つことが最大の財産になるということだろう。

 何にしろ、大学というものに対して何かの目的意識を持たない限りは、結局の所、大学からはなにもしてくれないのだ。私は、大学に行く気はさらさら無かった。高校の時点で、進学することに自分の目的を感じなかったし、それなら仕事をした方が良いと思っていた。大学がどういうものかも正直見えなかったし、大人達が語る大学の良さというものにどこか白々しさを感じていた。

 結局、あまり乗り気でなく拒否したかった自分の心を、少し動かしたのは少し年上の従兄弟からの年賀状だった。そこに添えられていた「大学進学に乗り気で無いようだけれど、あなたが思っているよりも色々なものを得られるから是非行けるならいった方が良いよ」という言葉に、実際にその場にいる人の言葉のニオイを感じた。その言葉で渋々受験をしたようなものだ。しかし、十代の私は自分が価値を見いださないことには徹底して手を抜く主義だったので当然成績は良くなかった。私が大学に入れたのは以前も少し触れたとおりセンターでのサイコロ運のおかげに等しい。

 それが、なんの因果か大学院にまでいくことになってしまった。逆に言えば学力面では全く偶然入ったとしても問題にならないのが今の日本の大学だということだろう。従兄弟の言葉通り、大学生活は自分の想像していたものとは全く違い、とても有意義だった。そこで沢山の人に出会って、語ったり何かを共有したり論じたりすることで今の自分の基礎を作れたように思う。

 今、ゆとり教育の見直しとか色々と言われているけれど、カリキュラム云々じゃ無いんだよ。人の意識をどう変えるかを考えないと道具がいくら良くなっても、あくまで使うのは人なんだから。

続く