やればできる子

 僕が今になって思うのは、高校時代に半分尊敬し、半分バカにしていた「自分の能力というマヨネーズのチューブを、最後の一滴まで搾り出そうとする人」のほうが、自分より遥かに「有能な人間」だったということなのだ。とても悔しいけれど、そんなふうにチューブを絞る訓練をしておくというのは、人生のいろんなシチュエーションで非常に役に立つ。本当にギリギリのところで勝負を分けるのは、その「最後の一滴」だったりするものなのだ。

 僕の中には、まだマヨネーズが残っているはずなのだが、もう、その出し方がわからなくなってしまっているのだ。「やればできるはず」なんていうのは、30を過ぎれば、ため息のオマケにしか過ぎない。

 

 大人にとっては、「やればできる人」になんて、何の価値もない。問題は「やる人」か「やらない人」か、あるいは、「できる人」か「できない人」か、ただ、それだけのこと。

 「少年老い易く、学成り難し」使い古され、垢にまみれた言葉だ。

 でも、それはたぶん、悲しいくらい普遍的な真実。

 「才能」になんて、何の価値もない。評価の対象になるのは、ただ「作品」だけなのだ。
「才能」の墓場から-琥珀色の戯れ言

 遠い昔から延々と自分の中で反芻されてきた議題だと思う。「やればできるこ」という称号は昔から有り難くないことにもらい続けてきた。やれること(実際はやれると予想されること)とやったことのギャップというのはもの凄い、実際中身は詰まっているがどうも穴が詰まっているチューブだって沢山あるように思う。

 親との喧嘩で「分かっているならやりなさい」という言葉を受けて「やること自体も才能でその才能が無いんだよ!」と良く叫んでいた。最近思うのはそれ自体は特に才能ではないがエネルギーがやはりいるということだ。

 ただそれは個々人だけで解決することでも無いように思う。詰まっている穴を通してくれるパートナーというのがいれば良い場合もあるし誰かが別の穴を空けてくれるかもしれない。別に自分一人でやらなくても良いではないかということ。

 人は社会動物ということで、別にみんながみんな中身が無くても良いと思うんだ。中身をうまくつまみ出せる人間だって必要で、そういう人は常にうまいマッチングを求めている。それが役割という話。

 30過ぎればため息のおまけというわけでもなく、自覚できてからどうするかというだけの話だと思う。これに関して本当に遅すぎる事というのはどれぐらいあるだろうかと思う。未来の自分にとって明らかに現在の自分は「若い」のだから。この話題に関しては先日本屋で白州正子の著書をぱらぱら目を通したときに目を引くフレーズがあったのだけれど、残念ながら失念してしまった。買っておけば良かったとちょっと後悔している。

 人は死ぬまで自分を変えることが出来ると最近気が付いた。それはいつ初めてもよくていつやめても良いものだ。例え角度が1度しか違わないとしても、進めば進むほど差は広がっていく。だから程度の差はあれ人は変わり続けられると思う。やる人とやらない人という区切りは間違いではない。ただその差は別段最初は大きなものでは無かったのだ。ということはいつでもやる人側にまわることができる。

 大きな間違いは、最初からその大きな差分を埋めようと思うことだ。自分の周りの小さな気づきをないがしろにしていないだろうか。そんなばかばかしいことをと思う事をやめれば人は変われるように思う。