芸術と常識

 まなめはうすを巡回中過去記事のリンクを覗いて、同じに日に書かれていた別の興味深い文章にたどり着く。こういう縁も面白いなぁ。

 美術展の来場者というのは、基本的に「有名な作品(あるいは、有名な作家の作品)」の前に集中します。もちろん有名な作品というのは「素晴らしい絵」である場合が多いのでしょうけれども、その一方で、僕自身には「この絵はつまんないな」と思って通り過ぎようかと思ったらピカソの習作だという説明を読んであわてて感心しながら見直す、とかいうような経験が何度もあるのです。多くの美術ファンは、絵そのものの価値判断が、何の説明も予備知識もない状態でできるのでしょうか?実際は、絵画鑑賞というのは、「絵そのものを見る」というよりは、「有名な作品を自分の目で観たという優越感」に意味があるのかもしれません。

 [映画][WEB]「芸術の価値がわかる」という幻想−琥珀色の戯言

 芸術とか美術とかいわれるものは、本当に曖昧で困ってしまう。これが道具としてのモノであれば機能を一般化して評価することも出来るのだけれど、芸術はあまりにもアナログなもので当然ながら数値化して比べることなんて普通は出来ない。

 一般的に芸術といわれる、絵画や彫刻、音楽の価値というは何だろうか。感性に訴えかけるという意味では個々によって当然評価は違い、好みがでるのは当たり前だ。だとしたら、表向きに見える芸術の価値といわれるものは、様々な人の価値観の集合体であると言える。ある種「常識」といわれるものとよく似ているように思う。

 ということは、世の中に流通している、いわゆる有名な作品というのは人の琴線に触れる確率が高いということだ。その作品の絶対的な価値とかそういうモノではなくて、ヒット率のようなものだと思っている。それが端的なのが、「他人がゴミというようなモノを収集している」人達だと思う。

 行為自体に貴賤があるわけではなく、単に賛同する人が少ないだけと言うことだ。それは、正にも負にも強いバイアスを生み出す。これは素晴らしいと言い始めると同調バイアスがかかって加速的に評価は上がっていく。そして付きすぎた評価は誰かが「王様は裸だ」といって暴落するのだ。

 実際の所、人の琴線に触れることというのは非常にデリケートな話でそうそうあるものではないと思う。芸術に地域性が生まれるのも、常識と同じく生活というバックボーンをもって初めて何かを感じるからなのだろうと思う。

 何故今日、文章が目にとまったかというと、私は食器などを見るのが好きで、人の家でも食器を眺めたり良くするのだけれど、自分なりに良いなぁと思ったものは出来るだけ褒めるようにしている。先日おタキさんの家で、ワイングラスとガラスのおちょこを見る機会があった。後であのおちょこは良いものだねぇと話をしていると実はとても安くワイングラスのオマケに買ったという話を聞いた。そこで自分の見る目は無いなぁと思うのか、良いものがそんな安くで買えて羨ましいと思うかその辺りが面白いところだと思った。そのことを少しblogで触れようと思っていたのでちょうど良いタイムリーなネタだった。

 私は気が向いたときに、展覧会に行くことがあるけれど、作品自体の世俗の評価は基本的にあまり気にしない。有名作品は確かに足が止まる確率が高いけれど、何気ない端っこに飾られて人もいない作品に、猛烈に足止めされることが結構ある。展覧会によっては一度も足を止めずに出ていってしまうことも少なくない。それはそれで良いのではないかと思う。結局の所自分が良ければそれがその人にとっての名作なのだ。芸術の楽しみなんてそんなものだと思う。

 ただ一つだけ、これは経験則からだけれど、作品は自分の目で実際に見てみないと駄目だ。写真集やカタログ、テレビ画像などではその作品のもつ本当の魅力は殆ど伝わってきていない。生で見ることの楽しさがそこにあると思う。

 そんな風に思うようになってから、色々なものを見るのがとても楽しくなった。以前にみっちゃんの日記を見て知り、おタキさんに貰ったグラスはそういう意味では10倍以上するバカラのグラスを貰うよりもよっぽど嬉しかったし、あれを使って酒を楽しんで、手触りを楽しんで幸せに浸っているのである。

 だから私は思うのだ。他人がこの良さに気が付かなくて良かった。そのおかげで私は少ない競争でそれを手に入れることができると。