文化という名の経済行為

 著作権について最近にわかに騒がれることが多くなってきた。テレビのデジタル化に際して、品質劣化しないデジタルコピーを抑制するためにコピー10などの規格の策定を話し合っているらしい。また、著作権にかんしても今まで親告罪であった著作権法非親告罪化する動きもほぼ既定路線らしい。


 流通の拡大ばかりが優先され、作品やコンテンツなど創作物を単なる『もの』としか見ないわが国の昨今の風潮を改め、世界に冠たる『文化』(Culture)が重要視される社会の実現を目指す。経済発展は情報社会の拡大を目的にした提案や計画が、文化の担い手を犠牲にして進められることがないよう、関係者や政府の理解を求めていく

 「iPod課金」は「文化を守るため」- ITmedia

 もともと、著作権は文化を守る物よりも著作者の権利を守る色の方が強いと思う。正直なところ、今まで文化というものを育ててきた人達に権利が付随していたようには思えない。大体において常に文化は権力と共に存在してきたものだと思う。

 海外で言えば絵画や音楽、日本でいえば囲碁や相撲、お茶など栄えていたものは常に権力の一種象徴行為としてパトロンが育ててきた物ともいえないだろうか。

 私の少ない知識のなかでは、元来創作に対する対価は、創作物その物に対してではなく創作行為に対しての保護という形で成立してきたものだと思う。いいかえればものに対する対価よりも人を育てる意味での対価だったように思う。戦後の資産家が多くの文化人を家に逗留させたりしていたことが、文化を育てる行為、ようは文化は金持ちの余興だったように思うのだ。

 経済行為と文化行為は今は切り分けが難しくなってきたけれど、商行為としての作品の制作というのは当たり前のように経済原理に乗っ取った形でペイするものを生み出すべきだと思う。特に音楽にかんしては正直なところ、殆どのものが作品というよりも商品の色が強くなったと思う。表現活動としてではなく、営利目的での活動であれば構造として保護する必要があるのだろうか。

 むしろ、その競争原理を生き残ったものが文化として生活に根付いていくものではないのだろうか。日本は民主主義の名の下に平等というお題目を提示している。今後、国策として何かを意図的に取捨選択して保護することは体制的に難しいだろう。衆愚の典型で、何かを選ぶことは平等ではないという話になるから。

 作品を商品に変えてきたのは、むしろあなた達では無いのかと言いたい。下手にパトロンからの自立を図ったために資本主義の中で生き抜かざるを得なくなってしまったのだ。競争原理は淘汰から生き残る原理だ。IT革命というインパクトによって既得権益が壊れても一度商品に変えてしまった以上、保護に対する気運は盛り上がることはなく、呆れられる一方だろう。

 本来、上の記事で挙げられる関係者達が注力するべきところは、規制の方式云々ではなく「価値に対して相応の敬意をはらう風土を作る」ことだったのではないだろうか。文化というお題目を掲げるならそれこそが本当の文化だと思うのだけれど。