ゆく川の流れは絶えずして・・・

 記事を読んでみて思ったこと。


 ネットが普及して、ますます多くのコンテンツが入手可能になりはしたが、その反面でコンテンツ所有に関する規制も多くかけられることになってきている。今、見たり聞いたりしているコンテンツは、数十年後にどれだけ利用することが可能で残っているのだろう?行き過ぎた規制は、コンテンツ継承の断絶を招きかねない。

コンテンツよ、永遠なれ-北の大地から送る物欲日記

 色々な情報の陳腐化が恐ろしく早くなったように思う。音楽にしたって、歌い継ぐというよりも消費し続ける形になっている。歌い継ぐというよりも「誰の歌」とかいう形で歌自体が独立しにくい形になっている。

 100歩譲って、そういった業界モノのコンテンツは風化も激しく、グルグル回っていたって困らないように思う。そういう意味で、個々の界隈で激しく変わったのは写真では無いだろうか。一時期カメラといえば高級品だったように思うけれど、写るんですの登場で手軽に写真が撮れるようになり、デジカメの登場でフィルムを意識しなくて済むようになった。

 フィルムがいらなくなったことで、撮った写真はパソコンの中に保存されることになった。それがさらに携帯になってもっと手軽になった。だがそれは果たしてどれくらい保存されているだろう。デジタル媒体は、場所をとらないがデコード媒体を必ず必要とする。データその物と再生機器が分離しているぶん情報が再読不能になる可能性が高い。

 HDDは短期的な保存にはともかく、長期に渡って保存するモノではない。実際それほどPCに詳しい人達でなければ、キチンとバックアップをとっていることは少ない。CD-Rなども実は保存状態によっては本当に簡単に読み込み不能になってしまう。プリントされた写真なんかは、何十年後にふとみつけて懐かしむ事ができるけれど。デジタル媒体は意図的に新たな機器にどんどん移行させていかねばならない。そう考えると色々なものが希薄になっていく気がする。

 実際、自分も大学時代からデジタルカメラを利用しているけど、たびたびHDDのクラッシュによってデータが失われている。

 小説なんかにしても、よく遺作の原稿が遺品を整理していて新たに見つかったとかいう話しもあるけれど、これほどデジタルかされるとそれも意図的でないかぎりは無理だろうし、そもそも本当にそうかという事がテキストデータだと判別がつかない。

 トンデモ発想かもしれないが、これからこうやってデジタル化が進むと、現代が古代になった際に未来から現在を伺い知ることはほぼ不可能ではないだろうか。現代のクリティカルな文献なんてものがそもそも参照できない可能性があるのである。

 昔バビル2世の原作を読んだときに、最初に塔にはいったバビル2世が紙テープでデータを出している大型コンピュータを見て何故こんな古い建物に最新型のコンピューターがとか言ってるシーンが思い出される。インターネットという雑多で統一性の無い情報の流通手段は、中央集中管理というものを手放すことで強くなったと言われているが、そのぶんコンテンツその物は弱くなったとも言える。雑誌などなら物持ちが良い人達なら残しておく事もあるだろう。ある種WEBページなんかは著作者がサーバー上から消した時点で、ほぼ消えてしまうと言っても過言ではない。昔のHPを懐かしんで見ると言うことは今のところ殆ど不可能だ。

 情報自体の冗長性を削り取り、圧縮を繰り返したデータは非常にもろい。現状世の中で一番手軽で情報の保存という意味で良いのは墨でかかれた文章だという。具体的に文字を書くという行為はそれこそ竹巻に墨で書いている時から考えれば2000年ぐらいの歴史があったと言うことだ。実際本当につい最近まではそれしか方法がなかったわけだ。

 そう考えると、色々な意味で現在の情報化社会というのは非常に危うい上に成り立っているんだなぁとちょっと思った。