今年は良く書いた

 ちらっと計算してみたら記事数にしてこの記事を合わせて459記事ぐらい書いたことになる。目標は日に2本だったけれどさすがに届かない。Danさんの記事かなにかでそれぐらい書くと良いよという話をみて目標にしていた。一番ノリノリに書いた5月でも70本が限界だったなぁ。11月に一度失速しているのも大きいな。

 このblogを書く前の前、teacupで日記を書いていた頃は記事数はそれなりにあったけれど、1記事あたりの文章量は圧倒的に今の方が多い気がする。それだけまとめていなくて読んでいる人にとっては苦痛かもしれないけれど。

 結局の所、色々な人から文章をもっと簡潔にまとめろと言われたのだけれど、ダラダラ書く癖はどうも収まらない。画面を埋め尽くす文字をみると自慰的な満足感があるから。人の書いた文章ならうんざりなのに酷い話だ。読んで貰いたい欲は確かにあるかもしれないけれど、結局の所チラシの裏の域を出ようとはやっぱり思えない。半径100m以内の事をダラダラ書くのがやはり性に合うらしい。

 結局頭の良いフリをしたいと色々文章をこねくり回しても、もともとある知識以上のものが出る訳でもなく、それについてもっと深く調べて書くほどの情熱があるわけでもないから。書くために考えるというよりも、考えたことを書く方向なのでそれ以上詰めない。

 駄文である事を恐れずに、只々脳内のものをアウトプットしていく場としてこの場所は存在している。自分の脳力を鍛えるためのある種ゴミ捨て場のような場所なのかもしれないなぁ。

 メールで、blogに書いてあることは本当の本心なのと聞かれた。ここに書いてあることは全て自分で考えたことであることは確かだけれど、本心というかどうかは分からない。私の心の部分集合だから、一部ではあっても全てではない。ただ、ここに書いていることは書くことによってよりリアルに自覚するための手段だ。愚痴を書かないのは、それを出すことで愚痴がリアルになってしまうことを避けるためだ。負のスパイラルは自分で口に出した瞬間から始まる。それは自分自身がイタイほど知っていて、それは本意ではない。

 負の感情は、悪いことばかりでも無くて、そのエネルギー自体をどう転換するかによる。負の感情が貯まったら自分が駄目になることは合っても、正の感情が貯まりすぎて自分が壊れることはない。これは負のエネルギーは非常に膨大だということにならないだろうか。光と陰と言うけれど、憤懣は問題解決の種になる。居心地の悪いときにそのエネルギーをどう発散させるかが問題なのだ。

 陰に籠もればイジメなどの話しにつながってしまう、愚痴をいうというのはそのエネルギーを吐き出すことだ。浪費という形で。その憤懣を自分を突き動かすエネルギーに変えられる人が時代を作ってきた人達だと思う。そう考えると憤懣もあながち悪いことでは無いように思う。