ステレオタイプA

 とりあえず毎日何かを書こうと思っている。当然なにも浮かばない日は頭をひねらないといけない。時事ネタはあまり書きたくないという話は以前にもしたけれど、昨日おタキさんと喋っていてその理由が分かった。

 私は記事を紙copiで書いているのだけれど、ある程度走り書いてみてそのまま書き続けるか決める。もしくは面白そうだけれどまとまらないときは書きかけで放置しておく。そんな中で書き上がりながら違和感を覚えて消した記事がいくつもある。その時に原因は分からなかったのだけれど。

 特にそういった記事はスポーツ関係の記事に多く、思考系の記事には少ない。どういう感覚かと言えば自分が書いていない薄っぺらさを感じるのだ。どこかで見たような記事。

 どこかで見たような記事が気に入らないのではない、どこかで見た記事がそのまま咀嚼されずに劣化コピーとなって記事なっているのが気に入らないのだということに気が付いた。自分なりの感覚、考察が入っていないことに違和感を覚えるのだ。

 他人の記事を読むと言うことは、記事の対象を著者の視点から仮想的に眺めることになる。それは言い換えれば他人の窓から覗かしてもらっているようなものだ。自分の窓から普段覗いているものを他人の窓からみると、本当に見える風景が違って、刺激になったり全体像がよりリアルになったりする。

 自分の窓を持たずに、他人の窓を覗くと、それが自分の窓と錯覚してしまうことがある。頭の中にある間はそれほど分からないのだけれど、実際に文章として吐き出すと凄い異臭がするのだ。それが良く言われる「借り物」というやつだろう。

 様々な体験や情報収集によって、自分の中で対象はリアルになってくる。それを積み重ねることで初めて対象を自分が何処から見るかを決めているのではないだろうか。それが決まるまでは何を書いても納得がいかないのだろう。

 ただそれ自体は悪いことではなくて、吐き出すことで初めて客観的に自分がその物事をどれぐらい咀嚼できているか分かるのだろう。

 こんな事を考えたのは

★話すことと書くこと
http://d.hatena.ne.jp/tomity/20071219/1198046883
(情報元:tomityの日記)
id:ashitano244のコメントを見たときにも気づかされたのですが、同じ思考のアウトプットでも「文字」にするのと「声」に発するのとでは違うんですね。その違いを最後に考察されています。話し上手のコツって何なんでしょう・・・
まなめはうす

 これについて考えていたからなのだけれど、少し横暴かもしれないが、話すことと書くことについて結論づけると、話すことは対応する能力が高い人に、書くことはまとめる能力が高い人に向いていると私は思う。

 文字にするのと声に出すのの最大の違いは自分自身に再読性があるかと言うことではないかと思う。勢いで校正しない人もいるだろうけれど、書いたものというのは基本的に最初の読者は自分なのだ。

 声に出すということは相手がいる。すなわち一発勝負ということ。これは文章にするよりも凄く大変なように思うがそうでもない、何故かと言えば対象がいるから。相手の反応を見て選択肢を選べる分、縛られているが故の楽さというものもあるのだ。体験した人なら分かるかもしれないけれど、相手が見えないところで一発勝負で喋るのは反応が見えないので非常に怖い。一度、ラジオにゲストとして10分間お話しをさせて貰ったことがあるけれど、何もない虚空に話しかけているようで非常につらかった。また、一人に対して喋るのと聴衆に対して喋るのも少し違う。まぁまだ相手の反応が生で分かるだけマシだろうけれど。

 私は書くか話すかといわれれば圧倒的に後者で、正直書くことは相当苦手だ。まぁその練習の為にblogを書いているのだけれど。書くという習性を得たことで、喋る能力も大いに上がったと思う。それは最初に案件をまとめ、それを対応的に選べるようになったからだ。書くことと話すことの両方の利点をつかめれば、人に物事を伝達する能力は大きく上がる。思考の基本について考えるきっかけを頂いたまなめさんに感謝。