「考える事」を考える2

 仕事をしていて、明らかに疲れているときは脳が空転していることを感じる。問題があることは分かっていても、問題を具体的な形で認識できないのだ。そういうときは、いくら時間をかけても結果が出てこない。結局なにか試作するとかそういう具体案が出ないのだ。

 逆にノッているときは、恐ろしい勢いで頭の中で検証されている事を感じる。ゾーンに近い感覚かもしれないが頭が回転していることを肌身で感じるのだ。そういうときは良くも悪くも手が動く。それは決して正解がバシバシ出てくるわけではなく、正解を出せそうな候補を吐き出せる感じ。それを高速で精査していくことになる。候補は新しい問題点を生み出し、次の候補を生み出すという正の連鎖で、候補は洗練されていくことになる。

 頭が空転しているのを感じたら、一度考えるのをやめて、問題の概要をもう一度書き出すことにしている。生み出すための準備が出来ていないときは大抵それで考えをまとめることが出来る。

 今回の記事は前回の森博嗣さんの記事と以下のまなめさんの記事を読んで感じたことなのだけれど、その中の一節で以下のような文章がある。

 また、自分の頭の中にあることを言葉にすると、またそこで新たな発見があったりするものです。よく、勉強は誰かに教えた方が身に付くって言うけれど、まさにそのとおりで、言葉にしてみると自分の知識を客観的に見ることができるんですよ。自分の弱点に気づかず他人の弱点ばかり指摘している人は、一度自分の知識をブログに書き出して客観的に見てみたら良いと思うんですよね。自分の頭の中にきっちり収まってた知識も外に出してみたら穴だらけかもしれません。
ブログで論理思考のスピードを身に付ける

 自分の頭の中にあるモノというのは、本当にアナログな情報として保持されている。blogや言葉などに考えていることをする、ということは持っている自分自身の情報をデジタルに圧縮するという行為だ。そのAD変換機能が低い人は一般的に表現力が低いと言われる。

 不自由なことで、人は個人ではなく社会動物として生きるために、他人とコミュニケーションをとる必要がある。そのためには自分が内包する情報を圧縮して相手に伝えなければいけない。その為に考える作業は良くも悪くも、内包した情報を一度圧縮して一般化してから思考する習性がついてしまう。

 ようは元々自分の中に一次的に持っているアナログ情報を、そのまま思考に流用することが難しくなる。幸か不幸か、部分的にそのような思考形態を維持している人達もいて、そういう人はその思考決定プロセスを他人に伝えることは出来ない。いわゆる天才といわれる部類だ。

 私の中で、秀才と天才の定義の違いは、一次情報を圧縮する精度が高く、こちら側で情報を処理してるのが秀才、一次情報をそのままあちら側処理しているのが天才だ。天才の処理方式は、個としては物凄く有能でも処理機構は一般化出来ないため突然変異として受け継がれることはない。秀才の処理はこちら側で情報が処理されているので、複雑ではあっても一般化する事が可能だ。これは継承して文化とする事が出来る。

 アプローチ的に、天才が突発的に生みだしたあちら側の処理をインプットとアウトプットから秀才が一般化することでお互いの利点を生かすことが出来る。フェルマーの最終定理なんかはそれの良い例ではないだろうか。

 自分が囲碁をやっていて、強い人は本当にあちら側で盤面を処理していると感じる。私はいたって凡人なので精々こちら側で頑張って考えようとしている。あちら側とこちら側では恐ろしく壁は厚くその壁を破ることは少なくとも私には出来ないだろう。一度そういう世界を覗いてみたいとは思うが。