「考える事」を考える

 森博嗣さんのエントリを見て思う。

 「考える」という言葉を非常に安易に使っている人が多いと思う。学生に「考えてきたか?」と尋ねると、「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」と言う。「じゃあ、悪い案を幾つか見せなさい」と言うと、きょとんとした顔で、「いえ、悪い案も思いついていません」と言う。「考えましたが、まだ、ちょっとまとまらなくて」と言うから、「では、まとまらないものを見せて下さい」と言っても、たいてい見せてもらえない。

自分を省みて、安易にというよりも、出来なかった言い訳に使っている事が多いと思う。本質的にやりたくないことを考えるときに、逃げの姿勢が出ると「考えましたが、ちょっと良い案を思いつかなくて」という結論を先に出してそこで思考停止してしまうことがある。当然悪い案なんて出てくる筈もない。

  多くの人が言う「考えた」というのは、「考えようとした」のことらしい。同様に「悩んだ」も「悩もうとした」である。否、たとえ考えようとするだけでも、100時間くらい考えようとしていれば、なにかは実際に考えるだろうし、そして、考えれば、なにかは思いつくだろう。きっと具体的な案がいくつか出てくるはずだ。ほんの一瞬だけ考えようとしたくらいで「考えた」なんて言わないでほしい。
 沢山の具体案を考えることは、無駄なようでけっして無駄ではない。採用されなかった案が、その人の将来の持ち駒になるからだ。

 体験的にいうと、考えるというプロセスは「まだ自分の中で無いものを、今あるものを使って生み出すこと」だと思う。考えようと思うと、今ある手持ちのものをまず確認して整理する論理的なプロセスとそれをどう組み合わせるかの直感的なプロセスを経ないといけない。直感的なプロセスを持たない論理的な組み替えは、考えるではなくただの作業だ。結論が分かっていてそれを組み直しているのだから。その結論を出すための行程を「考える」というのだろう。

 直感的なプロセスに移行する前の、問題の論理的整理が非効率だと、思考対象の焦点がぼける為に直感的組合せのプロセスに入れないか、もしくは恐ろしく非効率的になる。このことは、考えていないのではなくて、考える土壌を作れないパターンもあるということだ。

 与えられた情報のなかから、対象となる情報だけを取り出して問題をまず抽象的にしてはっきりさせる行為は、訓練によって身に付くけれど、なかなか体験することがない。本論とは少しずれるかもしれないけれど、今の学校教育は問題を解くことは教えても、問題を作り出す、問題提起するという能力は身に付かないように思う。それは、囲碁を例にとっても良くわかる。手筋や詰め碁の問題は解けても、盤面上のシーンを問題として切り分けることは難しい。

 長いので続く