リテラシーと俯瞰的視点

 本題とは関係ないが、過去の日付を弄った。とりあえず未来日記になっていたものはすべて今日の日付へ変更。もう日付はどうでもいいや。

 教育の面で、子供にWEBとどう接させるかという話題をWEBで見つけた。たぶん、リテラシーを親が教育するのは無理だろう。

 そもそも、教育できるというのはそれに対して教える側がある程度熟練している必要がある。何が危なくて何が安全かを経験的に伝えていくものであって、教材があるわけではなく経験がベースだ。今の親の世代にそんなものがあるわけがない。

 危機感を本当の意味で持った世代というのは30代以前年代くらいからだろう。それは親から子という場だけでなく学校教育にも同じ事が言える。そもそも現場の先生達はそんなことを一切専門的に習っていないのだ。指導要綱に急に振って沸いたからといって何を教えられるのだろうか。

 包丁で手を切れば血が出ることを知っていることと、実際に包丁で手を切ったことがあるのでは本当に天と地ほどのひらきがある。それを体験しないまま一体何を伝えようというのだろうか。

 情報を分別する力というのは、もはや年齢には依存しない段階で推移している。マスメディアのように最低限の品質(まぁこれも微妙だけれど)を補償されているわけでもなにもなWEBで今までのリテラシーは全く意味をなさい。そもそも存在している原則が違うのだ。

 WEBは、現実世界以上に世界の広さ自分の居場所の俯瞰的視点が持ちにくい。距離感が狂うと言ってもよい。IT革命という言葉でいわれた意味、通販などはその典型だけれど皆の距離が近くなったわけだ。それはネット内にいて実感しにくい。

 本当に見えない部分が多いのだ。目に見えることは、自分の知り合いとより便利にコミュニケーションが取れていることだけ。それだけを見て知り合い同士だけでコミュニケーションを取っているととネットという空間は自分の部屋と同じように思える。現実世界と同じように錯覚してしまうのだ。

 距離が縮まる事は、色々な参入障壁が下がっていることだ。実際の友達と自分の部屋で喋っていることを覗くことは、物理的な様々な障壁がある。距離だったり家という建物自体だったり。そこであなたが友達同士で喋っていることを認知したとしてもそれを覗くことは容易ではない。

 認知されるまでは現実世界とほぼ変わらない。認知されないものは存在しないのと同意だから。しかしひとたび認知されると、本当に簡単にワンクリックで覗かれるということだ。しかも、認知をするための手段も検索エンジンという形で用意されている。そこの認識のギャップが一番問題なのだろう。いわゆる炎上、(テラ豚丼にしろKFCゴキブリにしろ)そういった意識のギャップが問題なのだ。

 消えゆく言葉でも、限定された空間でもなく、記録は残り検索される空間で行動しているということがリテラシーの原点になるのではないだろうか。自分が簡単に発言したことが記録され検索されるぐらい情報は曖昧な内容でいい加減なのだ。

 ネット空間は殆どの人が思っているよりももっとパブリックなもので、自分を守っているのは自分自身だけという認識が必要だ。今までのように内容を担保してくれるものは、ほとんど無いといえる。

 こういった考え方をもつのに、一番良いのはWEBの広大さを何かで感じることなのだけれど、現状それを把握している人は誰もいない。俯瞰的に全体像を眺めることは不可能なのだから。目の前に浮かぶものでしか人がスケールを判別できないのであれば、リテラシーは殆ど育たないといっても過言ではないと思う。現実世界で言えば半径1mしか見えない視界のとてつもなく大きな部屋に、悪人善人ごちゃまぜで突っ込まれたようなものだ。全体像も見えない、となりも何かよくわからない。まさにワンクリック先は闇でクリックしてみないと分からないのだ。

 フィルタリングという話が出来ているが、善人悪人の区別がいまの人類社会で自動選別出来ない以上、それほど有益な担保にはならないように思える。無いよりはそりゃマシなんだろうけれど。

 必要なことはフィルターを与えることか、それともフィルターという概念をあたえることか。フィルタリングされた情報だけを与えられた人間は囲いの外に果たしてでられるようになるのだろうか。