道具としてのコトバ

 今更ながらコトバというものの危険性に気が付く。どれだけ無自覚に沢山の人を傷つけてきたのかと思う。なんというか、自分が今まで見たり聞いたりしてきた裏にあるものを本当に分かっていなかったんだと思う。

 あれもこれもと言い出すと言葉狩りのようになってしまうのかもしれない、思いを伝えるために、コトバを増やすことはとても良いことなのだと思う。しかし、増やすこととそれを使いこなすことは必ずしも一致しないだろう。

 必要なコトバを必要な時に、それは本当に難しいことだと思う。ただ、自分が今当たり前的に使っているコトバの意味をもう一度考えてみようと思った。

 ポジティブシンキング、ネガティブシンキングと言われる。前向きなコトバを出し続けることと、愚痴を吐き出し続けることでは多分大きな差がでるだろう。コトバにすること自体では、言うだけなので何も生み出すことは無いかもしれない。事実「口だけ」というコトバもある。

 実際、口に出し続けることは行為としては行われないかもしれない。しかし、コトバは出し続けることによって意識に刷り込まれ、そのすり込みの高いものが実際の行動原理につながるということだ。口に出すと言うことはそれだけ力があると言うことだろう。

 だとしたら、自分の心の中の思いで止めておかなければいけないことというのは、少なくないように思う。

 あの事件以来、自分の中で昔のように気軽に「死」というコトバを使えなくなった。というよりも今まで、本当にこの重いコトバを簡単に使っていたんだろうと思う。そして、今周りでは本当に簡単にそのコトバが飛び交う。

 インターネットやテレビを通じて、本当に沢山の情報に触れることになった。ただ、それは自分の見知らぬ関係しないものごとも沢山知ることになる。確かに自分の知らなかった世界を知ることは本当に楽しい。

 ただ、事件には必ずその後ろに現実が存在する。対岸の火事を見続けてきて、火事が花火にみえてきていないだろうか。911の話をしていて、実際に関係者がいた人達に今まで自分が911に対してしてきた会話をそのまま出来ないことに愕然とした。自分は一体なにをしてきたのだろうな。

 自分がテレビを本質的に恐れ、ニュースにそれほど関心を示さないのは確実にそういう一面もある。確かに世の中の流れを知ることは大切なのだけれど、自分の足下をどれぐらいしっかり自分は知れているだろうか。

 誰の前であっても、自分の原則に従った言動が出来るようになりたいと思う。自分の原則を叩き上げることを続けたいと思う。そして、その中でコトバをもっと大事にする自分でありたい。