あれもこれも

 しようと思いつつやっていない日々(出来ないではない)ぐだぐだ久しぶりに頭の中を整理せずに書いてみる。

 時間がいくらあっても足りないというほど、毎日を有意義に過ごしているとは思わない。頭ではもったいないと思いながら、体はなかなか言うことを聞いてくれない。そして、時間を隙間無く埋めることを有意義というかどうかも疑問視しているのだけれど。

 自分がやったことに対しての結果がうまく出ないと、色々な事へのモチベーションを保つのは難しい。克服した経験が皆無なので殆どの事が無駄に思えてしまう。自分が今まで出してきた結果といわれるものは偶然の産物である物が多い。正確には本人が意識しない上での正の因果関係によって生まれた結果だといえる。

 意図的に全ては当然はかれる物ではないけれど、自分がある程度の意図を持って結果を出そうとしたときの結果は芳しくない。それであれば無意識に自然体で行った方が踏ん張るよりは良いのかとも考えてしまう。

 自分にとって幸福とは何だろうか。人は与えられたものの絶対量で幸福を感じられるのだろうか。右肩上がりしか知らないことは本当に幸せだろうか。人の欲は際限なく、満足することを知らない。幸福を感じることは不幸を知って始めて可能だ。絶望や失うことを知らない人は本当の意味で有り難さを知ることはない。

 だとすれば、他人からみて順風満帆と思える人達も、本人達から見たら案外それほど幸せには思っていないのかもしれない。先日の勘定の起伏の話では無いけれど、波瀾万丈の方が刺激が多い分幸福を感じやすいのかも知れない。社会自体のエントロピーが高まり、成熟するとどんどん退廃的になるというのは本当にそうかも知れない。

 そういう意味で言えば、私は決して裕福でもないし一般的に言うまともな生活をあまり送っていないけれど、刺激という面では沢山あるので別の意味で幸せなのかも知れない。

 問題は沢山にあったにせよ、結果的にいままで何か最後の部分で、良くわからないけれどしんどいときは誰かに助けてもらっている。全てを自助努力で解決することは、社会動物である人間にはもう無理だ。だとしたら、いたずらにジェネラリストを目指すよりは、自分の出来ることを愚直にやる方が良いのかも知れない。

 依存することと共存することの境目は曖昧だ。高校の校訓でもあった「一隅を照らす」という言葉、これをもう一度胸に刻んでみよう。