自由

 ぴょんちゃんが本当に久々にうちに遊びに来た。もうひとりのお連れと久々の対局。

 対局数は相変わらず増えてはいない。しかし、日々の棋譜並べや読書等の中で、試してみたいと思っていたことを実行してみる。結局、試行に関してはうまくいったわけでは無かったけれど、そのあとにぴょんちゃんが色々と解説してくれて思考の元になる物を再確認させてもらった。

 結局、読みの深度はともかく、原理原則は初級も上級も無いわけです。普段自分が、教えるときに話している内容を同じように言われているということに改めて気が付きます。

 まず、意図をはっきりさせること。その上で、その意図にあった方法論を精査すること。囲碁だけに関わらず、物事を実行する上では当然のことですね。

 どの世界でも大概そうですが、自分が発見したすごい法則というのは、ほぼ車輪の再発明です。今までに誰かが考えついたことを知らなかっただけです。

 仕事での研究であれば、最初に発見したということは大変重要なことです。しかし、趣味の分野であればそういうことはあまり問題ではありません。

 むしろ、車輪の再発明を意識的にすることによって、勝手な自己満足を楽しむことができるので良いのかなぁと思うわけです。

 囲碁の世界にも当然トレンドがあります。プロの研究の中で、損得の計算がなされ、時代の流れと共に当然着手も移り変わります。しかし、アマの囲碁にとって微細な損得はそれほど問題にならないと思います。

 結局のところ、序盤の定石のほんの微細な損得以上に中盤以降でもっと大がかりな損をしています。私の尊敬する、妄想家さんがおっしゃっていたのですが「アマの碁はそんな簡単にプロみたいに善し悪しはきまらんよ。そんなもんじゃないだろ囲碁って」

 私にとっては心に感じる物がある言葉でした。これを聞いてから、一局の中でもっと色々とできることが有るんじゃないかと思えるようになりました。そして、アマの碁はもっと自由に楽しんで良いんじゃないかなとも。勝負に生活がかかっている訳じゃないですからね。

 自分が人に教えるとき、できるだけ「ダメな手」という言葉を使わないようにしたいと思っている。単純に「それは無い」「ダメだ」と言ってしまうと手が萎縮してしまう気がする。

 自分は分かっているからダメだと分かるということを意識して、まず何をしたかったのか、そして、その方法論してどうしてこれを選んだのかを聞いてみて、そこからうまく話ができたらなぁと思う。

 その辺の話のもって行き方は、ぴょんちゃんは非常にうまいと思う。昨日も酩酊しながら、解説を聞いていたけれど素晴らしく納得も得心もいった。そのあたりはうまく盗めたらなぁと思う。