手紙

 何度か思いを伝えるために手紙を書いたことがある。別にラブレターと言うわけではなく。

 その時に感じる、二つの大きな山。まずは自分の想いを表現する術があまりに稚拙だったこと。そして、字を書くこと自体が苦手だったこと。

 あきらめて、ワープロで打ちだしてみたりもした。でも何かが伝わらない気がする。

 少し振り返ってみて、気がついたこと。しゃべり言葉は内容そのものと抑揚によって表現される。単に言葉の意味だけで人は文章を理解していない事になる。仮に喧嘩をしていて相手に「もう、いいよ」と伝えられたとする。

 これを読んだだけで、相手の思いを感じ取ることは難しい。言葉には内容と感情が乗せられる。これは多分、手紙などで手書きをすることによっても、行間から滲み出るアナログな情報量があるのだろう。

 ワープロなどで文章を打ち出してしまうと、その部分の情報が欠落してしまって無機質に感じてしまうのだろう。連絡事項、たとえば「10時に集合」などには全く問題が無いのだろうけれど。

 「歌」はそのことを顕著に表している。歌詞とメロディーが一体になって初めて歌になる。言葉の本質をより強調したのが歌なのでは無いだろうか。だからこそ人は音楽にあれほど惹かれるのだろう。

 顔文字や絵文字は、PCや携帯という抑揚が伝わらない部分をアナログ的に補えない事へのささやかな抵抗なのだろう。

 それ、そのものが記号化してしまっていて本末転倒になっている部分もあるとは思うけれど。mixiの機能要望などを見ていると顔文字、絵文字に対するアレルギーは顕著に感じられる。

「そんなものを使わなければ表現ができないのですか」という意見をよく見る。それはある意味正しく、ある意味間違っている。前述の様な意見をあげる人の大半は、他人とのコミュニケーションのメインは実際に出会い、話すことでwebやメールの媒体はあくまでも補助なのだ。

 ようは、デジタルな媒体を介さないでコミュニケーションをとることがメインで、デジタル媒体は純粋な伝達事項をメインにしているのではないかと考えられる。そもそものスタイルが違うのだ。

 絵文字などの文化は、「より少ない情報量で、より多くの情報を伝えたい」場合には有用だと思う。デジタル媒体でコミュケーションを取ることが主流になることの是非はともかく、デジタル媒体で効率的に相手に感情を伝えること考えればごく当たり前の終着点ではないだろうか。

 少なくとも、「そんなものを使わなければ表現ができないのですか」と言っている人達は、同じ方法をつかって(例えばメール)相手に文章だけで、同じ情報量を、同じ容量で伝えられなければあまり建設的な批判とは言い難い。全てはTPOの問題である。使いどころの非常識を問うのなら分かるのだけれど。

 仮に待ち合わせに遅刻した際に、「まだこないの?(怒)」「まだこないの?(涙)」と表現された際に伝わる情報量を、表現と言う意味で顔文字絵文字を使わずに、行間からにじみ出させることはかなり難しいと思う。

 電話すれば良いじゃないかと思う方もいるかも知れないが、コスト的には圧倒的にメールの方が勝るし、実際に電話したのとほぼ変わらない情報量を伝えられるならそちらの方が効率的だ。

 まぁかといって、私が絵文字を積極的に使うかといえばそうでも無いのだけれど。でも別段悪いとも思わない。

 話しがそれてしまったけれど、表現することを過不足無く行うためには、ある程度訓練が必要だ。自分はもっと人に想いを伝えられる気がしていた。でもそれは幻想だった。伝わらないことは本当にもどかしい。相手の読解力に頼るのは本当にギャンブルだ。聞き手、伝え手どちらが良い悪いの問題ではなくて、伝わらなければ原因に関係なく結果は悪いのだ。

 自分の目的は想いを伝えることでそれが達成されなければ、何を思っていても無意味だ。伝え方は言葉だけでは無いだろう。でも言葉で伝えられることも多くあるはずだ。また有るか無いか分からない次の機会のために、私は想いを伝える準備をしよう。

 今よりも少しでも自分の想いが相手に伝わるなら、それはとても幸せなことではないだろうか。