囲碁会色々

 勉強させてもらっている奈良研究会と平行して、ここ数ヶ月何人かの方に囲碁を教えている。

 最初は一人だけだったけれど、友達の友達と言う形で今回は4人の方とやらせていただいた。

 皆さんほぼ全くの初心者で、ヒカルの碁で興味を持った方や友達に勧められてというかたもおられた。この辺りの囲碁に少し興味を持ち始めたかたの受け口は、本当に少ないんだなと改めて痛感した。

 とくに「ヒカルの碁を見て興味を持って本を読んでみたけれど、いまいち分からないままやめた」といわれる事のなんと多いことか。これは結局の所良い入門書の次の一冊が無いことを意味している。

 ルールを覚えた次の段階を説明する著書が、本当に不足している。将棋と違い終局の判断がはっきりしないのが、囲碁を続けられない一番の原因だろう。

 私は、「囲碁が難しくてつまらない」と思わないで欲しいと思っている。ぴょんちゃんのアドバイスを聞いて、楽しいことに関して考えてみた。楽しませるっていうことはどういうことだろう。自分が始めた頃の気持ちに戻って何が楽しかったかを考えてみた。

 向き不向きもあるだろうから、全ての人が囲碁を楽しめるとは思わない。けれどせめて興味を持ってくれた人達に楽しんでもらうことは出来るんでは無いかと思う。

 囲碁に関しては、原始的な楽しみはやはり「石をうちあげる快感」ではないだろうか。パチンコで大当たりがでて、受け皿に玉がたまっていくときのドキドキ感に似ている。シチョウを最後まで逃げて全て打ち上げるあの快感をまず楽しんでもらえれば良いかなと今回は思っていた。

 今回、始めてこられた方。友達に誘われて「難しそうだけれど一度話しを聞いてみたい」とこられた。その人の囲碁のファーストインプレッションが私によって決まると考えると結構緊張する。ここで楽しんでもらえなければ二度と囲碁を遊んでもらう機会は無いだろう。

 やはり会をする前には、来られる方の人数、レベルに合わせてどういう形で時間を使うか考えてしまう。その段取りが悪いとどうしてももたつくし、つまらなくなってしまう。全員が同じように強くなっていくわけではない。そして、全員が強くなる必要もない。それを忘れないようにしないといけないと思っている。

 プロを目指すのではなく、嗜好品としての碁、だから私は知りたい事を教えてもらえる辞書程度で良いと思っている。あとはいかに知りたい事をわかりやすく示せるかだけの話しだ。皆が、それぞれのレベルで自分なりに楽しめる手伝いをしようとおもう。

 会が終わった後、メールで「囲碁は難しいと思っていましたが、楽しかったです」と頂いてとても嬉しかった。今後この場で続けていけるかどうかはともかく、少なくとも良いイメージを持っていてもらえれば、またどこかの切っ掛けで再開する可能性を残せたのだから。

 少し話しが変わるが自戒もこめて。会の方に「先生」と呼んでいただいているが、これは非常に私にとって怖いことだ。私も人間なので呼ばれると嬉しいが、その感情が怖い。

 囲碁に関わらず、私の周りには「先生」と呼ばれている方は多い。その環境に慣れると、「先生」はとても醜悪な臭いを放つことがある。いわゆる思い上がりが見え隠れすること、これが怖い。

 人は慣れる生き物だ。最初は有り難いと思っていても、日常的になればやはり初心は薄れる。特に自分は調子に乗りやすい所があるので、気を付けて過ぎる事はないだろう。だから、出来れば「先生」はやめてもらった方が有り難い。

 そもそも、教えることによって私自身が勉強させてもらっている。初心者に教えるということは原点に思考を戻せるということだ。自分が相手に説明しようとすることによって、自分自身の抱えていた穴を発見することは本当に多い。有り難いことだ。

 どれくらい続けられるか分からないけれど、出来る限り迷惑をかけない形で楽しく続けられたらと思っている。