読書

 自分にとっての読書について考えてみた。

 読書に求めることは二つ「解明」と「娯楽」なんだろうと思う。

 「解明」は自分が興味のあることに関する原理原則を知るための読書。いわゆる実用書の類を読むこと。

 「娯楽」は言葉そのままの意味で小説やエッセイを読んで楽しむこと。

 自分の本棚を見直してみて比率を比べてみた。手元にある本が大体600冊程度、割合でいうと大体1:1のイーブン。振り返ってみてここ10年の読書量が著しく減少していることを痛感した。

 寝る前に読書をすることが無くなったからかも知れない。特に読書力の低下を感じるのは小説を一冊一気に読み切るのがしんどくなって来たことでわかる。これは10年ほど前から視力が低下したことも関係するのかも知れない。

 この10年かぎっていえばライトノベルなどの娯楽小説を本当に読まなくなった。実用書一点張りだ。最近でいえばakdに本をかりた時ぐらいしか娯楽小説を読んだのが思い当たらない。

 中、高当時まだ今ほどオタクが溢れていなかった時代。コンプティークなどの雑誌からTRPGに触れ、いまよりまだ硬派であったドラゴンマガジンを購読していたころは1日一冊のペースで何かを読んでいたと思う。(富士見の新刊全部買っていた時代もあった)

 実用書?と言って良いのかはわからないが高校当時は中国の諸子百家の思想も読みあさっていた。あの当時(春秋戦国)の中国は本当に最先端の文化をもった国だったと思う。特にいわゆる法家といわれる人達の思想は今の私に大きく影響を与えている。

 私の物に対する思考の原点は韓非子である。法家は基本的にシステム論で感情論を抜きとして理路整然としている所がよい。

 当時の歴史そのもの、戦史自体にはじつはそれほど興味はない。あの混乱の世の中で展開されていく論理を追い続けるのが好きだった。

 私が実用書を読むのは、安易な成功論などを求めたいわけではなく原理原則をしりたいのだ。根幹の原理原則さえある程度把握できるならば実際の運用にはあまり興味がない。

 囲碁に関しての読書が一番顕著かもしれない。定石を覚えるよりもどう考えて石を運ぶかを考えたい。記憶による網羅型の学習よりも原理に基づく思考型の学習が好みだ。ただまぁ2桁のかけ算をやるためには九九を暗記する必要があることも知っている。

 1月からは意識して考えることを続けているので読書力も大分戻ってきたように思う。また、blogを書くために頭の内容を常にまとめようとしていることも思考能力の向上に役立っているようだ。これを続けていこうと思う。

 最後に10年前と今と何故これほど読書量が変わったのかもう一度考えてみた。結局でた結論が酒を覚えてから今まで本につぎ込まれていたお金が全て酒に回ったという事実に気が付いた。