もう誰も信じられない

文章おかしいのでとりあえず取り消しで・・・
コメントもらってるから2,3日は恥ずかしいけどさらします。


 手ひどい裏切りに合った人がよくいう言葉。これって最大の自己否定だと思うんだけどどうだろう。

 何度も書いているけれど人を見誤る事はあっても裏切られることって実際あるのだろうか。全ての思いなんて他人が推し量れるわけがないし、自分自身他人にすべてをさらけ出しているわけでもない。与えられた情報から自分が判断しただけの話だ。

 騙された側が悪いと言い切る訳では無いけれど、そればっかりともいえないんじゃない。色々な体験はあるだろうけれど、それをひとくくりにして全てに置き換えることは非常に短絡的だろうね。

 私はどっちかといえば何かあると「ああ、そういう人か」とさめて見てしまうことの方が多い。その辺はよくもわるくも割り切っているほうだと思う。いや思っていたのかな。

 全てを疑う事は一番簡単な危機予防にはなるかもしれない。それによって減らせる危険と失われる機会、そのバランスは果たしてどうだろう。ハイリスクハイリターン、ローリスクローリターン。

 結局の所、必要なのは危険を避けることよりも危険をおかす覚悟なのかもしれないね。ある程度はテクニックで危険は減らせるかもしれないけれどそれ極少量にしかすぎないと思う。何かがあっても受け入れる覚悟、いわゆる「金を貸すときはあげるつもりで」という心構えが必要なんだろう。

 これは裏切られるのがいやだから程々にというよりも、関わるなら本気で、そしてその結果どうなってもそれを受け入れる。その覚悟、それが人を懐に入れてつき合うていうことじゃないのかな。

 悲しいなと思うのは、何かある前は本当に持ち上げていて何かあった後さんざんにこき下ろす事。結局それは相手よりも自分自身を嘲っていると私は思うのだけれど。

 よく信頼は築き上げるのは大変で崩れるのは一瞬というけれど本当にそうなのかな。駄目なのが良くなることも良いことが駄目になるのも同じだと思うのだけれど。

 簡単にひっくり返ることっていうのは実際はこつこつ積み重ねてきたものではなくてハリボテだったんじゃないだろうか。外見が堅い岩石に見えていただけでそもそも危うい物だったという事じゃないかな。正の方向であれ負の方向であれ積み重ねてきた物っていうのはそう簡単には崩れない。

 きつい言い方をすれば裏切りによって人間不信になるなら、それは自分自身の今までの人間関係に払ってきたコストそれほど過小だということなんじゃないかな。