モチベーション

 怒れる人はエネルギーがある人だと思う。質はさまざまあるが怒りのエネルギーの大きさは並大抵ではない。怒りで理性のたががはずれるという経験はだれしもあるだろう。

 この強大なエネルギーの矛先をコントロールした人間が大事を成し遂げているように思う。時には時代への憤懣であったり、不自由さに目をつぶれないそれを改善させたいと思い立つことは怒りなのではないだろうか。

 それを考えると私は深刻なエネルギー不足に悩む人間では無いだろうか。私は性質的にのめり込む事ができない。そのことしか頭にない状態を作ることが出来ない人間なのだ。時間を忘れて何かが出来る人間はうらやましい。というか時間に縛られて生きている人間なのかも知れない。

 他の人から見れば私は色々な物にのめり込むように見えるかもしれない。ただそれはあくまで無制限の情熱ではなく予定調和の箱庭なのだ。決して箱から出ることはない。やる前からある程度何をどうするか規定範囲内。そして未達でも時間でゲームオーバー。達成されてもそこでゲームオーバー。

 最近は当初の箱さえも埋められない状態が続いている。箱を埋める前に燃料が切れてしまうのだ。そして何かに対してすぐそういうものだから仕方がないというあきらめ。「やればできる」これは真理だろう。そして「やる」ためには何らかのモチベーションという燃料が必要だ。燃料さえあれば大概の事は可能だと私も思う。

 小学生の頃から「やればできるこ」という言葉を何度も聞いた。対して「努力できることも才能やねん」と何度も行ってきた。間違ってはいないと思っていたが少し違和感もあった。努力出来る事って一体何か。

 もともとその人が持っているエネルギーの量だろう。それが本当に尽きたときに人は死ぬ。人間が元来持っているエネルギーは計り知れない可能性を持つだろう。一般に言われている才能はそのエネルギーの利用効率をあげているだけにすぎない。エネルギーの総量圧倒的であれば少々の使い方のロスなど問題にならない。

 圧倒的なエネルギーは時に奇跡と言われることすら可能にしてしまう。実際に小さな事ならば何度か目にもしたこともある。それを目の当たりにすると人の可能性について改めて考えさせられる。

 結局の所、達成出来るか否かはその物事が簡単かどうかではなく達成することにどれだけのモチベーションを持てるかだけでは無いだろうか。どんなに簡単なことであっても全く必要のないと思うことをやり続ける人間はおそらくいない。