人という小宇宙

 他人のことはどうでも良かった。以前のblogでも書いたことがあるかも知れないが私は昔は本当に他人に興味がなかった。

 小、中の頃は本当に変人扱いされていた。変な意味で目立つことは迫害を生む。村社会の日本の田舎ではそれは顕著だ。実際、今から思うとあれは先生からを含めていじめられていたのでは無いかと。

 特に中学の頃はひどかったように思う。上級生からも良く呼び出されたりもしていた。今から思うというだけで当時の自分はアホどもめとしか思っていなかったが。冷静に見て教師もアホばっかりと思っていた自分は向こうからしたら当然鬱陶しかったに違いない。少なくとも中学生当時の私を納得させるだけの屁理屈すら述べてもらえなかったのだから仕方がない。

 まぁかといって優秀な生徒であったかといえば全然そうでも無かったのだけれど口だけは達者だった。「いってることの1/10でも実行すればすばらしい人間になれるのにね」とさんざん言われていた。しかし「岡目八目」とは良く言ったもので私は他人のことはよく見えても自分のことは全く見えない。残念だ。

 そう言う人間にありがちな「絶対的な自分の価値観」に準じて生きてきた。真理は唯一無二だと思っていたし全てはそれに沿うべきだと思ってもいた。だから当時の興味は自分が自分の信じる価値観に基づきどれくらいのことが出来ているかということだけで他人の評価や行為にはほとんど興味が無かったのである。

 そんな中、大学に入って先日のエントリーをきっかけに初めて女性とつきあってみて本当に衝撃を受けた。行動原理といい、感情の動きといい、私が知っている人間という物の基礎を打ち壊す物だった。(別にその人がとてつもなく変ってわけではないです)

 これは自分の考える真理の誤差の範疇を明らかに超えている。しかしそれはいけないことなのか?と自問自答する日々が続いた。その違いというのは一体なんなのだろうか。自分の出した結論は「人はそれぞれ小宇宙で独立したもの」ということ。同じような環境で似たようなものであっても同一では当然ないしそうである必要も全くない。

 他人との関わりが「独立した個」の交わりあいと思うようになって、自分を尊重して欲しければ相手に踏み込むときもその覚悟を居ることを知った。相手と自分の宇宙は法則が違うのだ。だから相手の中に入れてもらってそこで事を成すために振る舞うにはその法則を理解する必要がある。そして相手が望まない限りその中で自分は影響力を発揮することは出来ないのだと。

 それからは人と関わることが楽しくなった。今の私にとって人と関わることは違う宇宙を覗かしてもらうことにある。それはとても楽しいことだ。自分と違う物を見ることが目的なので違うことに戸惑うことも拒否反応を示すこともない。それはそこにあってそういう物なのだ。

 人は死ぬまでの間にどれくらい沢山の小宇宙を見ることができるのだろう。