結婚

 自分には果たして近すぎる他人は必要だろうか?社会動物として以上の他人の存在が今の自分にとって必要かどうかを自問自答してみる。

 家族というカテゴリーに他人を招き入れることは色々な責任も付随してくる。得られる権利と責任、これを秤に掛けたときに自分は他人を必要としているのかという問題は非常に難しい。

 社会的な営みを行う上で必要な他人(生産的な見地で)自分の生活を支える上で必要な他人、本能を満たす上で必要な他人。様々あるがどうだろう?

 社会的な営みという立場、いわゆる公人としての他人とのつきあいは収入を得て生きていく以上切れる物ではないし無人島で一人で暮らすことは不可能である。

 実際の生活をささえる役割分担上の他人、いわゆる働き手とその補助という役割で言えば一般的に見て生活力の問題で言えば他人の力は別段必要としない。これに関して言えば男が働き手、女はそれを支えるという役割分担的な神話は崩れつつあるし男女平等とまことしやかに言われている。実際の所平等に負担するのであれば別段人数が増えたところで何か楽になるわけでもない。

 本能的な部分、いわゆる性欲やそれに付随して子孫を残すという生命の命題的な物を満たすための他人。これは性欲そのものはいくらでも代行手段が存在してなおかつコスト的に言えば安価だ。自分の子孫を残すという絶対的な本能に関して言えば本来はそれ自体が生存するための一番の目標であるはずだがそこに関して本能的以外の問題点は逆に無いとも言える。

 結局あるに越したことは無いがあればあったで色々大変だという意味で一方的に居た方がよいと思っていないところが一番の問題点なのだろう。

 正直な所とても短い結婚生活の印象は「自分一人のほうがよっぽど全てにおいて楽」という事である。自分にとって精神的な満足以外物理的に結婚によって楽になったことは一つも無かったのが本音である。逆に精神的な充足を得るだけならば別に結婚する必要もないという結論になるのかも知れない。

 実際の所これだけ金を稼ぐ手段が多様化してかつ金で代行できるサービスが多様化している現在で相互補助関係としての結婚という形式はどれほど意味があるのかはかなり疑問である。まぁ実際それが少子化や婚期の遅れを招いて居るのだろう。

 結構色々なひとから「もう一度結婚する気あるの?」という問いにいつも「相手さえいれば別に結婚自体がいやになったわけではないですよ」と答えてきたが冷静に考えてみればその自分が思っている結婚と一般化された結婚像とはすさまじく乖離している気がする。それを望む相手が捕まる可能性は偉く低いのでなかなか今後は難しいだろうなぁとちょっと思った。