結局そこにいくのかね・・・

 最近剣道をやってるわけですが、さすがに中学生女子に負けると悔しいわけで時間が無いながらも素振りしたりなんだりするわけです。まぁ昔なら取りあえず数やっとけば成果出るだろうとか言う感じでなんにも考えずにやるわけですが、最近は時間も無いのとそれなりに効率よくやりたいので色々とやり方を考えるのです。

 まぁそんな中でちっちゃいながらも自分の目標をすこしずつ達成していくのは楽しいわけです。何かやる、考える、変える、またやるという普通のフィードバックシステムを利用した循環でやっていってます。そんな中で今日ふと思ったこと、それはやっぱり慣習というのは洗練されているなということ。部分的な条件を色々積み重ねていくと結局のところ昔部活で嫌々やっていた稽古が一番効率的だと言うことに気がつくわけです。

 ただ一つ思うことはその稽古をすること自体が効率的というわけでなくしたいことを突き詰めたらその稽古ということですね。それは大きな差だと思うわけです。昨日の話題とラップするのですが結局のところ理解のない手段は形骸化を生みます。そういうのはもったいない話だとも思うわけですよ。

 少し思ったんですが昔の自分もそうですが新しいことが何でも良いことのように思うことって多々あるわけです。そして慣習にこだわる人は懐古主義と思われたり柔軟性にかけるという評価をもらうことも多いわけです。それは別に悪いことではないのですが今まで引き継がれてきた物事には必ずなにか必然があったわけですよね?もちろん時代の流れで形骸化されて意味の失われている事も多々あるとは思いますがその中で慣習の意味を本気で突き詰めてみるのはどうだろうかという事を思ったわけです。

 馬鹿馬鹿しいと言うことを前提にせず全ての慣習には元々洗練された意味があると仮定してそれをするめを味わうように噛みつくすというアプローチをとってみたいと思ったわけです。温故知新ではないです、新しきを知るというよりも失われつつある本来の意味を突き詰めてみようということです。剣道の言葉で「守破離」というのがあります。師の教えを守り、破り、離れる。成長の段階を示す言葉ですが守るというのは盲目的に守ることではなく教えの意味を全て学ぶ事から始めるという意味でないかとさっき思ったわけです。その学ぶ事を終えて初めて破る事の意義が出てくるのではないかと思うのですね。というかほとんどの事っていうのは守る段階からなかなか抜け出せないのではないかと思うのです。

 そう思うと世の中にあるオリジナリティと言われる物がなんかすごく軽薄に見えてくるのは私の言い過ぎでしょうか?歴史の重みっていうのはそんなに軽々しいものでは無いと今日改めて思いました。