おためごかしと自己陶酔(続き)

 自分の経験上、人間関係がこじれると『自分はこれだけのことをしているのに気がついてくれないし何もしてくれない。もういやだ。』という思考に陥りがちでは無いだろうか?これは実は強烈な矛盾を内包していると思う。

 冷静に考えれば当たり前だがまず相手は他人だ。『気がついてくれないし何もしてくれない。』これはお互いがお互いの事をまったく理解出来ていない可能性を示している。自分がある意図をもって起こして取った行動を相手があまり重く受け止めていない(気づいてくれない)ということは価値観として結構な相違があることを意味する。ということは相手にとっての意図して起こした行動もこちらが気づけない事を意味する。

 自分の意図を相手に理解してもらうためには自分の出口から相手の入り口へ思いが届く必要がある。すなわち相手の入口と出口を知るための努力をしないとよほど自分と同じ場所に入口と出口がないと思いは通じない。

 正しいたとえになるのかは解らないが仕事を例にすると売り手として考えると「すばらしい商品」と「商品が売れること」というのは別の話だということだ。同様に「すばらしい商品が売っている」ことと「その商品を自分が知っている」という事も別の話だ。仕事で客に物を売るときにこんなにすばらしい商品なのに誰も買ってくれないなんて不条理だと嘆いていたら普通はアホかと思われないだろうか?同様にある程度自分に感心のある分野であれば良い物がないかという情報収集を自分でしないだろうか?

 そういう自分からのアプローチをもって意図を伝えたりくみ取ったりするという努力を怠ってはいないだろうか?相手に伝わらない事は全てとは言わないがやったことに満足する自己陶酔、おれはこれだけやったんだという満足をえるものになっていないだろうか。おためごかしに自己陶酔しても人間関係は決してうまくいかないと思う。解ってくれないと嘆くのは簡単だろう、解らないのがわるいと切り捨てるのは楽かもしれない。仕事でも良く上司の無能をぼやくのに聞く言葉だ。相手の無能を示唆する事で暗に自分はする事はしている相手より有能だという主張が見え隠れする。だがしかしそれはどうだろうか?少なくとも相手を無能呼ばわりするのであれば有能というのはその無能に自分の意図を伝えられる能力をいうのでは無いだろうか?伝えられない時点ですでに相手と同レベルぐらいなのではと私は思ってしまう。

 この点が自分が破綻させた結婚生活の反省点だ。結局自分は自分の城のなかで自分の価値観において行為を押しつけていただけで、間にあった溝を埋める努力をいっさいしていなかった。知っては居たけれど臭い物にふたをした結果が破綻という答えである。ただこの事に気がつけたことは今後に置いてすばらしくプラスだと思う。そして幸いな事に気がついたときから人は改善して実行することができる。また今から始められるのである。