かきそびれていたこと

 震災について思うところは沢山あるのだけれど、直接の被災者でもなく何かすべてが現実感がない。大学が岩手だったこともあり被災地と思われるところにも知り合いがいる。連絡をとるのも何か億劫というか怖いというか実感のないものがのこのこと何をと思うところもあり積極的な連絡はあまりとっていなかった。情報のハブになるような友人に声をかけておよそ知っている人は命は無事ということだけは確認した。
 安否の確認はかなり自己満足なのかなとも思ったりする。普段からかなり親しく連絡をしているのならともかく。震災とは直接的に関係ないけれど、母親が去年ガンになって入院したとき、沢山の人から連絡をもらったようだが、その際の声のかけ方について非常に憤っていたのが記憶に新しい。大きすぎる災厄が降りかかった人に安全地帯かと思われるところからどんな声をかけられるだろう。かけることで得られるものがかける側の自己満足ではちょっと救われない気がする。
 そういう意味では、twittermixiを通じて受動的に安否をしれるというのは災害時に非常に有意義だと思う。実際にネットワークというインフラが一番有効なことは、情報の発信と受信を切り分けられることだろう。被災者は一度情報をアップしてしまえば閲覧側の負荷はサーバーに向かうわけで、電話などと違って直接被災地に負荷がかからない。ネットワークは被災者にとって直接役には立っていないという話しもでていたけれど、負荷分散という意味で間接的に大きく差が出ているように思う。
 東京方面の話を聞いていると、地震もさることながら放射能に関する話で相当情報が錯綜しているようだ。情報も錯綜しているが、それを取り扱うもののスキルが顕著に現れている。普段からリスクというものに真正面から向き合ったことがない人はリスクをあるかないかの二元論で捉えてしまうようだ。別に放射能にかかわらず、普段から見えないところで許容量であるというだけで知らされていないリスクがあることが分らないと、全てが降ってわいてきたように見えるのだろう。飛行機に乗ることにだって被爆リスクがあるということなんて普通の人は知らないだろう。日常時のリスクは許容範囲ないだとあえて知らされていないが、非常時のリスクは念のためと知らされてしまう。知らぬが仏とはよくいうけれど、許容範囲だからと隠蔽されるとそれはそれで後に大きなリスクになるということもあって一概に風評被害がでるから発表を控えろとも言い難い。リスクそのものよりも、リスクが可視化されたことで判断という行為を普段からしていない人間にとっては凄いストレスが発生して、それがもとのリスクが与える害を越えてしまっていることが東京辺りでは感じられる。特に放射能は目に見えないだけに一度そのリスクに気が付くとわけが「わからない人」にとっては不安がいつまでたってもぬぐえないだろうとは思う。
 おタキさんには注意されていたのだけれど、やはり直接の被災者では無いのだけれど連日テレビの報道番組を見続けると精神的になにかおかしくなるらしい。一時住んでいた場所ということもあるのだろうけれど少し自分が情緒不安定になっていることは感じている。それから意識的にテレビの報道番組は遠ざけるようにしている。ラジオは平気だがテレビはどうも無駄に同じ映像を繰り返されることで変なフラッシュバックがおこるようになるらしい。
 そして、先日東福寺に用事があって伺ったのだけれど、そこで手を合わせることで少し心が落ち着いた自分を感じて、本当に個人ではままならないものに向き合うためには宗教というものが必要なんだなと納得した。